預言者ジョセフ・スミスは近年の預言者として知られていますが、古代でも同様に神様から召された預言者がいました。今日は、モルモン書をつかって、古代の預言者たちについて学びます。ジョセフ・スミスの預言者としての生涯と類似する点が見つかるかもしれませんね。
引用:
わたしもこの神聖な書物(モルモン書)について証したいと思います。わたしはモルモン書を何度も読みました。またそれについて書かれた本もたくさん読みました。著者たちは、物語や人々、歴史的背景など、様々なものに焦点を当てています。ほかにも、言語の構造、記録されている武器や地形、動物、建築技術、度量法に興味を示したものがあります。
それらの問題も興味深いことかもしれませんが、モルモン書の研究が最も実を結ぶのは、イエス・キリストについて証をするというその第一の目的に焦点を当てたときです。それに比べれば、そのほかのことは付随的なものにすぎません。
モルモン書を読むときは、その最初から最後まで中心となる御方、生ける神の子、主イエス・キリストに注意を集中してください。それから、2番目のテーマ、すなわち神がイスラエルの家の残りの者と交わした聖約を守られるということに注意を向けてください(「モルモン書の証:」ラッセル・M・ネルソン長老、1999年10月)。
考えてみましょう:
「もしあなたの両親が亡くなる前に、最後にひとつだけ彼らにお願いをするとしたら、あなたは何を願いますか?」ヤレドの民は海を渡り、約束の地に着き、 そしてその地に定着すると、ヤレドとその兄弟のマホンライ・モリアンカマーは「老いが進(み)」ました。彼らは亡くなる前に彼らの民を集め、「自分たちが墓に入る前に何をしてほしいか」民にたずねました(エテル6:19-21)。
ヤレドの民は何と答え、ヤレドとヤレドの兄弟の反応はどうだったでしょうか?(エテル6:22-24)
1.預言者に従う信仰
民の望みは王を持つことであり、これはヤレドとヤレドの兄弟にとって「嘆かわしい」ことでしたが、両者の願いに対する反応はどのように違ったでしょうか?(エテル6:23,24)子供たちと従う人々が良くないことを願い主張するときに、指導者と両親の責任は何でしょうか?この話し合いには、次のジョセフ・F・スミス 大管長の言葉が役に立つでしょう:
「愚かなほど甘く配慮に欠け、自分の子供を怒らせることを恐れるあまり、彼らのわがままや悪い行い、正しいことよりもこの世のものを愛することを許すような浅はかで偏った愛情を、神はいかなる者にも禁じておられます。」(ジョセフ・F・スミス、Gospel Doctrine、p.286)。
この勧告に従うことの結果がすぐに明らかにならない場合、勧告に従うためにどのような性質をわたしたちは持つ必要があるでしょうか?(エテル12:5、6)モロナイは、この性質である信仰について議論するために、エテル書12章の大半を充てました。
エテル12:5,6によると、勧告に従って正しく行うときに、証はいつ得られるのでしょうか?
少し時間を取り、モロナイがこの原則を説明するために、モルモン書から引用しているいくつかの例を見つけてみてください(エテル12:7、13、14、15、17、20、22、30を参照)。聖典を読むときに、「後、からでなければ」と「信仰」という言葉を含む聖句に線を引いてください(エテル12:6、7、12、17、18、30、31)。
エテル6章に戻りましょう。ヤレドの兄弟が、囚われの身について予言したことの成就を、ヤレドの民が見るまでに、何世代が過ぎましたか?(エテル6:25-30;7:1-5)
従順の結果はすぐには見れないため、忍耐と信仰が必要な、現代における予言的な勧告の例を思いつきますか?例えば、家庭の夕べ、食料貯蔵、家族の聖典の勉強、外で働かずに家で主婦をする母親、パンフレット「若人の強さ」 などからの勧告を思い起こしてみてください。
2.ヤレドの民は多くの世代をとおして、預言者を受け入れたり拒む
(エテル7-11)
少し時間を取って、ヤレドの民が約束の地へ行くために準備をしていたときに、ヤレドの民へ預言者が与えた勧告を復習してみましょう(エテル2:7-12。また2ニーファイ1:5-12;アルマ45:16;エテル13:2も参照してください)。以下は、これらの聖句のメッセージを要約しています:
「神に仕えるか一掃される」
ヤレドの民(エテル書)の歴史は、以下のパターンを説明しています。
- 人々が邪悪になる。
- 預言者(宣教師)が人々に悔い改めを呼びかける。
- 預言者を受け入れる人々は祝福される。
あるいは
- 人々は預言者と神の裁きを拒む。
- 人々は、悔い改めと預言者に従うことにより、裁きに答える。
あるいは
- 悪を続け、滅びへと続く
この章で、わたしたちの時代のために、モロナイは何を教えようとしているでしょうか?(エテル8:19-26)。
3.シオンは、やがて約束の地に築かれる
(エテル13)
モルモン書の終わりでは、ニーファイの民とヤレドの民の滅亡についてと、未来の世代への警告について説明しています。しかしエテルは、この地に住む者たちには、栄えある出来事が待っていると教えています。その出来事とは何でしょうか?(エテル13:3-12—新エルサレムとシオンが築かれる)。
シオンの祝福と約束は、アメリカに住む人たちだけに限られるのでしょうか?(2ニーファイ30:8)。この件について、ブリガム・ヤング大管長は次のように説明しています:
神聖な影響力が、わたしたちが耕す土、建てる家、所有するすべての物の上に、わたしたちの力のおよぶすべての上にありますように。堕落したものから離れ、あなたの心、家、国に神のシオンを築くならば、わたしたちは最後には地に勝利を収めるでしょう...(Discourses of Brigham Young, pp. 443,444)。
結論:
わたしたちは、シオンと最後に起こる新エルサレムが築かれると約束した、エテル、ブリガム・ヤング、およびその他の預言者の預言の成就をまだ見ていません。それどころかときに、わたしたちはその約束の成就を見ることはないと、思うことがあるかもしれません。
この約束されたシオンは、常にちょっと手を伸ばせば届くところにあるようです。わたしたちは、シオンを目指して進む過程で、シオンに住んで得られると同じ徳が得られることを理解する必要があります。過程は結果と同じなのです。わたしたちがシオンに近づくのも遠ざかるのも、毎日の行いや家族生活のいかんに、また正直に什分の一を納め、惜しみなく断食献金を払っているかどうかに、さらにはいかに奉仕の機会を捕らえ、勤勉に奉仕するかによります。わたしたちはこの世にある間にこのシオンを見ることはできませんが、多くの人々はシオンを目指して進む途中で自分自身を整えます(ロバート・D・ヘイルズ長老、総大会、1986年4月)。
わたしたちが現実にシオンの社会を見るまでは、過去の多くの人々がしてきたことを行うよう勧められています。エテル12:19を読んでください。信仰の目で(様々なものを)見(る)とどうなるのでしょうか?わたしは、信仰の目で見ることにより、喜びを与えられてきたことを証します。わたしが住むことができ、不安を感じることなく子供たちを育てられる社会に大きな期待を抱いています。子供たちが「罪のないまま成長して報いを得る」ことができる日を待ちこがれています(D&C45:58)。心が清い人しかいない社会に住むことができる日に、わたしたちすべてはどんなに喜びを感じることでしょう。
メモ:このレッスンは、モルモン教のレッスン・マニュアル(福音の教義クラス:モルモン書レッスン46)の補足として作られたものであって、取って代わるものではありません。さらに理解を深めたり、個人的に高める目的のみに使用されるべきです。
この記事は、もともとテッド・L・ギブソンによって、LDSLivingに書かれたものです。スミス寿子により翻訳されました。