ジョセフ・F・スミスはミズーリのファーウエストで1838年の11月13日に生まれました。彼の両親はモルモンの預言者ジョセフ・スミスの兄弟のハイラム・スミスとメアリー・フィールディングでした。彼の誕生のほんの2−3日前に、父のハイラムはミズーリの市民軍の手に引き渡され、不思議な名前であるリバティー刑務所[リバティーは自由を意味するから]に入れられました。彼は家から拳銃を突きつけられている状態で連れ出され、暴徒が家を取り巻いていました。そのとき母親のメアリーは家の中で病床にあって、そのような精神的な外傷をもたらすような状況で出産することから重い病気にかかっていたのです。暴徒の一人は彼女に夫がきっと殺されることを告げ、一人の説教者が家の中に立ってモルモンに対する怒りのメッセージを述べていました。暴徒はすべての者を1つの部屋に閉じ込めましたが、赤ちゃんだけは外におかれました。その家を破壊している最中、彼らは寝具の重い山となった束の中に幼いジョセフを埋めてしまいました。彼の生存は奇跡でした。しかし、家族が解放され、彼を見つけた時には、彼の体は青白くなっていました。

父親は殺害された

ジョセフの幼いころは、その信仰と奴隷制度を拒んだためにモルモンはひどい迫害に直面していました。彼が5歳の時に、父親が暴徒に殺害されました。まだ9歳の時に彼は一連の雄牛を操って、ミズーリからユタへの旅に加わっていました。モルモンは迫害から逃れようとしていたのです。ウインター・クウォーターで牧童として働いて小さな家族が生き延びられるように助けました。

彼は読み方を習いましたが、それは大草原を旅しながら聖書を母親と読むことを通してです。彼の教育の機会は、母親を助けて家族が生き延びられるように働かなければならないために限られていました。ユタでは、家畜の群れを養い、脱穀やその他の農作業の手伝いを行い、樹木の伐採や運搬をしました。彼はまた家族の家畜の群れを守る責任があり、自分の失敗で家畜を失ったことは1度もありませんでした。

ジョセフ・F・スミスは孤児になる

Quote-by-Joseph-F_-Smith-about-pure-intelligenceジョセフの母親は、彼がまだ14歳の時に亡くなりました。15歳の誕生日になったばかりの時に彼はハワイでの伝道に3年間召されました。(今日、宣教師は少なくとも18歳にならないと務めることができません。)彼はそこの言語を学ぶことができるという霊的な祝福を約束されました。

彼は最初にカリフォルニアに泊まりました。そこで彼は十分な交通費を稼ぐために屋根を葺くこけら板を切断するしごとにつきました。その旅は大変で、目的地に着くとすぐに重い病気になりました。そこの人たちは彼の世話をしてくれ、回復している時に彼はハワイ語を勉強し、100日以内にその言語で流暢に話せるようになりました。長年の年月の後、彼はハワイに戻り、ある婦人と会いました。その人は90歳になっていて盲目でした。彼女は、ジョセフが病気だった時に世話してくれた人です。彼は彼女のことを自分のハワイ人のお母さんと呼んでいます。

宣教師のジョセフ・F・スミス

ハワイからの帰途で、彼と同行の同僚たちは拳銃を向けてモルモンであるものはだれでも殺すという男たちに会いました。一人のものはジョセフに彼がモルモンであるかと尋ねました。その時の彼の答えは、「はい、正真正銘、徹底的なモルモンです。」拳銃を持った男は、そのグループのリーダーでしたが、ジョセフの答えに驚いて、とりわけ拳銃が彼に向けられていた時であったため、ジョセフに握手すると、グループは危害を与えずに去って行きました。3年後にジョセフは信仰を否定することによって命を取り留める機会がありました。彼の一行はイリノイ州の暴徒がいっぱいいるノーブーに近づく時に、自分たちの信仰について慎重に言及しようとしていました。しかし、あるカトリックの祭司が彼に特に自分がモルモンかどうかを尋ねたのです。彼は安全を願って一瞬否定しようと思ったのですが、しかし、否定しないことを決めました。彼は、自分がモルモンであると言い、その祭司はあっさりその答えを受け入れたのでした。

ジョセフは1858年の早い時期に帰宅し、1857年に既に行われていた全ての海外の宣教師と同様に解任され、ユタをアメリカの軍隊の脅威から守る助けをしました。軍隊がユタに向かっていたのです。彼はユタの軍に入り、ブチャナン大統領の恩赦と和睦宣言を受けた時には守衛の任務にあたっていました。

ジョセフは数回の伝道を経験し、結婚してからも伝道しています。今日宣教師は結婚している場合には家から離れて伝道する場合は伴侶と行く場合にのみ専任で務めを果たせます。しかし、教会の初期の時期には、モルモンの男性はしばしば一人で伝道に出ました。彼は英国やハワイに伝道に出、さらに、自分の考えでハワイの教会を指導しようと決心していた男性の問題を解決するために、ハワイに出向きました。その件では、教会の指導者は彼がそうする権威を持っていないからだめだと説得しようとしましたが、聞かないので、彼は破門になりました。

使徒としてのジョセフ・F・スミス

1866年、ジョセフは十二使徒たちの秘書として仕えていましたが、ブリガム・ヤングはジョセフ・F・スミスが自分の顧問に召されるべきだという印象を受けました。しかし、十二使徒定員会の一員になるのはそれから1年後で、1867年に顧問に召されました。それはブリガム・ヤングが3人目の顧問が必要になった時です。(通常は、顧問は2人ですが、必要に応じてそれ以上召されます。)

明くる年ブリガム・ヤングは亡くなります。そのとき、ジョセフはパーレー・P・プラットとともに英国で伝道していました。ヤング大管長が亡くなった時に二人とも帰国するように指示されました。1880年の10月に彼は預言者ジョーン・テイラーの第2顧問になりました。

彼は一夫多妻制を実施し、何年もの間5人の妻がいました。

ウィルフォード・ウッドラフが82歳で預言者になった時、ジョセフ・F・スミスは彼の第2顧問となり、ウッドラフ大管長が亡くなると、ロレンゾ・スノーが召されますが、その時も第2顧問に召されました。

預言者ジョセフ・F・スミス

ジョセフ・F・スミスは先任使徒になりました。それは使徒に召された日にちで決まる役割で、自動的に次の預言者になるはずでした。彼は教会の大管長であり預言者に1901年63歳で着任します。37年ほども前から、数名の指導者から、彼がいつかその責任を受けるだろうと預言されていました。

ジョセフが預言者として直面したチャレンジの一つはトーマス・カーンズを上院議員として教会が推薦するようにという要請を受けたことです。スミス大管長は、教会は立候補者を推薦することはしませんと言うと、カーンズはモルモンに反対するキャンペーンを始めて、迫害をあおり立てるようにアメリカ党を設立したのです。彼らに対するキャンペーンは大変熾烈なもので、党員もそれが攻撃的であると感じたくらいです。スミス大管長はそれに対して、カーンズを赦すように教会の会員に勧告しました。

1906年に、ジョセフは、現代の預言者としては初めてヨーロッパに旅しました。翌年、彼は一夫多妻制を擁護する説教をし、教会の公式な見解として教会と国家とを分離する方針について強調しました。モルモンの一夫多妻制に対する反対の立場から迫害されているとき、彼は家族から隔離されていました。しばしばその間には伝道の業に就いていました。

1915年、ジョセフは「家庭の夕べ」というプログラムを導入しました。そのプログラムでは、モルモンの家族は一週間の一日に家族として集まり、互いに福音を学び、家族の絆を強めるようにします。このプログラムは今日でも続けて行われていて、モルモンの家族が成功している決定的な要素になっています。

ジョセフは戦士の使徒としてしばしば知られています。それは物理的に戦うのではないのですが、迫害に対しモルモニズムを絶えず防衛して来たことに対して言われることです。その迫害によって、彼の父親は殺害され、彼の家族は絶えず転々と住居を変えることを余儀なくされ、自分の妻たちと子供たちは苦しまされました。彼は教会を擁護するために懸命に戦いましたが、自分自身に対しての迫害に対して弁護する手紙は一通として書いたことがありませんでした。

1918年にジョセフ・F・スミスは啓示を受けますが、それによって死後の世界についてのモルモンの理解がはっきりされ、高められました。それは教会の公式な教義として十二使徒によって承認されましたが、1918年に亡くなった後になって初めて公表されました。

ジョセフ・F・スミス

テリー・リン・ビットナー

ジョセフ・F・スミスは、モルモンの預言者ジョセフ・スミスの甥ですが、まだ5歳の時に父親と叔父が殺害されました。非常につらい生涯にもかかわらず、彼自身もモルモンの預言者になりました。

この記事はテリー・リン・ビットナーによって書かれました。彼女はこれまでにモルモンの歴史37の投稿をしています。

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