ウイリアム・マースデンはどのような方法であれ、彼の持ってるたくさんの才能を使って奉仕した頑強なモルモンの開拓者でした。末日聖徒イエス・キリスト教会(しばしば、はからずもモルモン教会と呼ばれる)の改宗者として彼の燃えるような証によって神のふさわしい僕となりました。

私、ウイリアム・マードソンはアブラハム・マースデンとハンナ・ソーントンの子供として1814年3月16日に、英国のランキャシャー郡のオルドハムの町で生まれました。父の職業は綿糸を紡ぎました。私は綿糸にかかわる仕事の環境で育ち、25歳までその領域の仕事に従事しました。私の両親は厳格なメソジストで、彼らは新連結メソジストと呼ばれる団体に所属していました。

改宗とモルモン宣教師の奉仕

Devote-Holiness-Path-AD24歳のとき、末日聖徒イエス・キリスト教会に加わり、1939年10月7日にランキャシャーのマンチェスター郡にあるアーンヴェル川でバプテスマを受けました。私はまた、1840年1月5日にパーレー・P・プラットとブリガム・ヤングによって祭司に聖任されました。二人は末日聖徒イエス・キリスト教会の十二使徒です。

次の日が日曜日で、ブリガム・ヤング会長は、私にオルドハムに行ってそこの人々に福音を伝えるように依頼しました。そこには末日聖徒の伝道者がいなかったからです。私は徒歩でそこに行きましたが、およそ7マイルの道のりでした。私はトーマス・イェーツとジェームズ・マーホンという2人の祭司を招いて、いっしょに行こうとしましたが、彼らはその招きに応じてくれました。トーマス・イェーツと私はそこで引き続き働きました。6週間で6人の人がバプテスマを受けましたが、それぞれが別々の教派に所属していました。私はそこで引き続き働き、そこに教会の支部が組織されるまでいました。1840年2月17日にその支部は組織されました。私はそれから新しい所に行って働きましたが、どこに行っても人々に宣べ伝える機会がありました。

1840年の10月16日、私はブリガム・ヤングとウィラード・リチャーズの手によって長老に聖任されました。私に宣言された祝福は私が汚れた霊を制圧し、追い出し、病人を癒す力をもつというものでした。私はオルドハムやその近くの地域で4月まで働き、5月にはヨークシャーのリーズにある伝道部で働くようにパーレー・P・プラットによって任命されました。私はそこに2週間いて、マンチェスター郡の家に戻りました。それはおよそ30マイルの道のりで、 財布も聖典ももたず、歩いて旅し、家に着くと家族は病気でした。

私が帰宅して2−3日して、息子のアブラハムが亡くなりました。リーズに送られる前に、私はフランシス・パーネル氏に雇われていました。彼は著名なメソジスト教会の役員をしていて、末日聖徒を雇っていることは不名誉のことだと考え、その結果私は解雇されて非常に貧しくなりました。それでも、聖徒たちが私の支援に来てくれ、助けてくれたため、死んだ子供を葬ることができました。そのすぐ後、パーレー・P・プラットによってアメリカに移民し、そこで働いて家族に仕送りするように勧められました。

モルモンのアメリカへの移民

その結果、私は家の家具を売り、友だちからのわずかな献金を受けて移民することができました。私は英国の岸を去り、リバプールの桟橋から、「クリフトン号」という船に乗り、9月23日に出発し、1840年11月12日にニューヨークに着きました。2−3日仕事を探したのですが、何も見つかりませんでした。

その地域の教会の指導者の指示のもと、ウイリアムはニューヨーク市とニュージャージーで伝道しました。

パターソンという町で働き、かなりの人数の人たちにバプテスマを施しました。それからニューヨークに戻り、それからニュージャージーのトレントンに1840年12月18日に行き、いとこのトーマス・ソーントンを見つけました。彼は鍛冶屋でした。私は彼と16日間一緒に居て、アイヴズ氏のために綿糸工場で働きました。

ウイリアムは福音を宣べながら旅をして、フィラデルフィアに行き、それからまたニュージャージーに行き、そこでマルフォード兄弟に会い、彼からイリノイのノーブーについて行くなら、旅費を全部払うと言われました。

1841年4月12日にバーリングトンをたち、運河を旅してピッツバーグを通って、4月末にノーブーに着きました。そこにつくと、ブリガム・ヤング会長は私を家に招いてくれました。17日間の滞在の期間に仕事を見つけてくれました。それから私の家族は英国から着きました。私の妻のジェーン・アップルビー・マースデン、息子のサミュエル、娘のハンナ・マリアとまた弟のサミュエルとその妻セーラ・ウィルキンソンがみな、英国のリバプールから帆船「ハノーバー号」でニューオーリンズに来て、そこから蒸気船でミシシッピー河を上ってノーブーに来ました。彼らは1841年5月1日にニューオーリンズに上陸し、5月15日にノーブーに到着しました。

私と家族はヤング会長の所に3週間泊まり、その間私の兄弟と私で住居を建てました。ブリガム兄弟は私たちに市の地所を与えてくれました。私が貧しくどのような道具もなかったので、斧とハシバミのブラシを借りてきて、杭を地面に打ち込み、バスケットというか枝網細工のようにブラシの形にそれを織りました。それからそれを黒い粘土を使って内側も外側も塗り、広い屋根をつけ、煙突と暖炉をつけ、部屋の大きさは10フィートかける12フィートでした。それから私はヘンダーソン郡のオクワウカに、リチャード・ハードマンといっしょに行きました。私たちはサイモン・オーエンズのために井戸を掘りました。その労働に対して、雌牛2頭と子牛を何頭か与えられました。私たちはそこで2週間働き、それからノーブーの家に戻りました。雌牛と子牛をもって帰ったので、粗末なトウモロコシや酸っぱいミルクを食料にしていましたので、家族はとても満足しました。

次の11月11日に、父と母が英国からノーブーに到着しました。私はそこで彼らに会い、私の家につれてきました。そこでほとんどの期間一緒に住みました。妻と私はノーブー神殿でエンダウメントを受けました。父と母は両方とも1849年の11月11日に亡くなりました。そして、イリノイのオクワウカの墓地に埋葬されました。彼らはコレラで亡くなったのです。私はまた妻のジェーンと私たちの3人の子供も埋葬しました。

1855年の4月29日にイリノイを去ってユタに向かいました。家族と雌牛に引かれる荷車で旅し、ソールトレイク市に到着しました。それは1855年の9月3日のことです。10月3日にユタのプロボに引っ越ししました。そこでルシアス・ネルソン・スコヴィルと知り合いになり、1956年9月16日に彼の娘のサライアとソールトレイク神殿で結婚しました。

麦から作った黒蜜

1857年の10月8日、すべての軍隊は合衆国軍と向かい合うためにエコー峡谷に招集されました。その軍隊はジェームズ・ブチャナン大統領によって、不法にも派遣されたものです。南部部隊の大佐に任命されました。1858年の5月7日に私はヤング大管長と彼の家族の守衛として合衆国軍隊から守ろうとしていました。次の日、私はヤング大管長に麦から作った1ガロンの黒蜜を贈りました。ヤング大管長は教会の記録の中に私がユタで初めて麦から黒蜜を作ったと記録しました。

綿糸の製造機

1858年6月24日に私はエベニーザー・ハンクスとソールトレイク市に行ってブリガム・ヤングを訪れました。彼は私がなんとかハンクスを助けて、綿糸をとる機械をつくるように命じました。私は綿糸機械の図面を書き始めました。砂糖工場の機械室に行って、そこにとどまって、機械が完成するまで、監督をしました。鉄の一部はジョンソン部隊がキャンプ・フロイドに置き去りにした鉄の廃材を利用しました。

1861年10月15日に、私はアイロン郡のパロワンに向けて家族と一緒にプロボを出発しました。その年の[次の年?]の10月まで綿糸工場を監督しました。それから1864年の1月から1869年の5月まで監督しました。私はユタで機械による綿糸製造を最初に手掛けました。

パロワンにおける綿糸工場を設立して監督し、その職に長年務めました。

この記事はdelisaによって書かれましたが、彼女はMoromon History15の投稿をしています。彼女は末日聖徒イエス・キリスト教会の会員で、66回引っ越しをしましたが、この美しい地球にまだ飽きていません!彼女は人々、言語、歴史や文化人類学、世界の宗教文化が好きです。彼女の生涯にわたる熱情は宗教的な象徴、とりわけ古代と現代における神でとの関連について研究することです。彼女のご主人のアンソニーと彼女はブルドックのウエリングトンと、冒険、旅行、映画、オートバイ、友だちや家族と過ごす時間が好きです。

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