末日聖徒イエス・キリスト教会(しばしばうっかりモルモン教会と呼ばれます)の預言者であり,大管長であるジョセフ・スミスは生涯にわたって多くの友人に恵まれました。ジョセフは人々を深く愛し,彼らの福利と幸福について心をくだきました。これらの特質は末日聖徒イエス・キリスト教会の初期の指導者であり,ジョセフ・スミスの友人でもあったウィリアム・W・フェルプスにとって大きな祝福となりました。
ジョセフ・スミスの人となり
ジョセフ・スミスは長身で青い目で明るい茶色の髪をしていたとよく言われています。彼は壮健で,人なつこく,陽気で,カリスマ性のある,人をひきつける,親しみのある人でした。よくにっこりしていましたが,それが笑い声にかわることもありました。子供と接するのが好きで,会う人は誰でもすぐに彼にひきつけられてしまいました。「彼の見たものは非常に変わった衝撃的なものであり,また彼の態度は非常に真面目で,明らかにとても率直で,興味を持たずにはいられません。」ジョセフは「とても思いやりがあります。」「彼は正直で,彼を知る人は誰でも彼を好きになりました。」彼は自分の周りにいる人すべてに個人的な関心を寄せ,皆「対等」と考えていました。ジョセフの態度は「威厳があると同時に優しく,厳かであると思えば非常に陽気」でした。顔は「慈しみと博愛にあふれて」いました。彼は「高貴な大胆さと自立した人格」を備えていました。
ジョセフが説教するときは,「彼の説明は明瞭で,とても常識的で,純粋な信条だったので偏見のない公正な人々は彼の信念に興味をかきたてられました。」「彼は聴衆に興味を持たせ,精神を高揚させ,一方同時に魅了し,楽しませたので誰も絶対に演説にうんざりすることはありませんでした。」
ジョセフの母親は彼について他の二人のきょうだいたちに比べ,「本を熟読することはほとんどありませんでした」が,「はるかに瞑想と深い研究」をしていたと述べました。2 ジョセフは友人たちとは「社交的で会話好きで,しばしば毒のないジョークをとばしていました。」
一人の執筆者はジョセフ・スミスが複雑な考えを概念化して単純に教えることができたと述べています。ジョセフは驚くべき記憶力の持ち主でした。3 彼は「導きを求める弱い,または混乱した人々を本質的な道理により導く堂々とした行動力」を授けられているようでした。ジョセフは自分を「欠点やおろかなところがない人間に見せようとはしませんでした。」彼はまた「人を見る目がある」と言われていました。
人々はモルモン書を読み,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員になると,ジョセフ・スミス(末日聖徒イエス・キリスト教会の最初の大管長で預言者でした)に会うきっかけを探したものでした。
ウィリアム・ワインズ・フェルプス預言者ジョセフ・スミスに会う
フェルプスは教会の指導者の一人のパーリー・P・プラットからモルモン書をもらいました。彼と妻はその晩ずっとモルモン書を読みました。彼らはモルモン書の教えを聖書の教えと比べました。朝になるまでに彼らはモルモン書が神の御言葉であるという霊的な確信を得ました。
燃える証を胸に,フェルプスはモルモン書で見出した真理について宣べ伝え始めました。彼は伝道したことにより投獄されましたが,釈放されてから家族の荷物をまとめ,モルモン書の翻訳者であるジョセフ・スミスに会うためにニューヨーク州フェイエットに向かいました。
フェルプスがジョセフ・スミスに会ったとき,彼は預言者に自分は主が求められることを何でも行う準備ができていることを伝えました。フェルプスは文章の執筆,編集,印刷の技術を持っており,聖文印刷や他の神聖な業において預言者を助けるには適任となりました。
W・W・フェルプスの業
フェルプスは教会に入り,教会の指導者の一人であるオリバー・カウドリを支援して,教会の学校のための本の執筆,印刷,選別の手伝をしました。(教義と聖約55:1-4参照)また,預言者の妻であるエマ・スミスの教会の最初の賛美歌の編纂を助け,29曲の賛美歌の歌詞を書き,その多くは現在でも歌われています。また主の啓示を編集した『戒めの書』の活字組みをし,教会の定期刊行物である『The Evening and Morning Star』を発行しました。彼は多くの鍵となる教義的なエッセーを書き,教義と聖約の編集を支援し,政治的,法律的な問題について教会を代表し,公式な手紙や嘆願書を書き,教会とその指導者たちを代表して政府の役人に陳情しました。
フェルプスはジョセフ・スミスとの交遊を楽しみ,預言者もフェルプスに対して「天の示現によりこの確信を得た神の人として全幅の信頼」を寄せていました。フェルプスは教会に対して深い献身を示し,ジョセフ・スミスや他の教会の指導者に忠実でした。
フェルプスはジョセフとその他の6人とともにシオンの地を探すためにミズーリに旅をするように選ばれました。フェルプスはそこに留まり,ミズーリを愛するようになりました。そこで彼はその地域で教会を監督する助けの責任を受けて奉仕しました。
ミズーリにいる間,フェルプスは反モルモンの迫害を受けました。『戒めの書』を印刷しているとき,暴徒が彼の印刷所を襲い,プレス機や家を破壊しました。彼は妻とは別々に逃げました。子供たちのうちの二人は逃げ,別の二人はがれきに埋もれましたがけがはありませんでした。暴徒たちがすべてのモルモンはそこを立ち退かなければ虐殺すると要求したとき,フェルプスは自ら捕虜となりました。また暴徒と解決のための話し合いをし,モルモンの半分は6か月の間に立ち退き,残りの半分はその後4か月の間に立ち退くこととなりました。しかし暴徒は2か月もたたないうちに襲撃してきて,家に火を放ち,女性を辱め,略奪し,殺しました。
家族とともにミズーリ州の他の郡に落ち着いた後,フェルプスは当時教会の本部があったオハイオ州カートランドに旅をするよう選ばれました。二年近く彼はジョセフとエマ・スミスとともに暮らしました。この間,教会はカートランド神殿を建て,フェルプスは神殿の奉献のときに起きた驚くべきペンテコステのような天の現れを目の当たりにしました。天から主イエス・キリスト,モーセ,エライアス,エリヤや他の天使たちが神殿にやって来ました。
W・W・フェルプスの転落
1836年にフェルプスはミズーリ州に戻りました。彼とジョン・ホイットマーは聖徒たちが移住するための場所を探す責任を与えられていました。彼らは教会のステーク会長会の顧問であり,土地を購入するために奉献された資金を使いましたが,彼らは個人の名前で土地を購入し,それから聖徒たちに土地を売却し,少しの利益を得ていました。彼らは自分の家族を維持するためにお金を得る権利があると合理化しました。教会の会員たちは不満を表し,その件は調査されることとなりました。
1837年4月にはフェルプスとホイットマーは悔い改めて,それをやめるように命じられましたが従いませんでした。1837年9月に主はジョセフ・スミスに啓示を与え,彼らを激しく非難しました。1837年11月にジョセフ・スミスにより開かれた大会の中で聴衆の前で告白し,そこで預言者から激しく責められました。しかし彼らはまもなく悪い行いに戻ってしまいました。彼らは1838年2月に指導者の召しをはく奪されました。1838年3月に開かれた宗紀評議会に出席するのを拒みました。彼らはキリスト教徒らしくない行いにより会員権が停止されました。
フェルプスは教会の最悪の敵の一人となりました。今や彼は記事を書くという才能を教会の敵を扇動する目的で使い,訴権乱用の提訴にまで至らせました。彼は偽りの噂を広め,中傷的な報告を出版し,暴徒たちに怒りをたぎらせました。ジョセフ・スミスに反対し,彼の業の価値を低くしました。主が預言者を通してフェルプスに悔い改める機会を与えたとき,彼は拒みました。ミズーリ州知事のリルバーン・ボッグズのモルモン撲滅令や,ミズーリ州での多くのモルモンの大虐殺にも加担しました。
フェルプスはまたジョセフ・スミスを裏切り,彼の最悪の敵に彼を引き渡しました。フェルプスはジョセフ・スミスや他の教会の指導者の裁判で嘘の証言をしたので,リバティーの監獄で長い冬の間,非人間的な状況に監禁されることとなりました。フェルプスは1839年3月に教会から破門されました。
教会に戻るフェルプスの旅路
フェルプスと家族はオハイオ州デイトンに移り,数年間教会とは縁を切っていました。この間,フェルプスは自分の嘘により預言者や教会の会員たちが苦しむことになったことに気づき,非常に苦痛を感じるようになりました。仕事を見つけることができず,無一文になってしまいました。家族は病気になり,彼は後悔し,自分の魂は永遠に失われたと思いました。
この大変なときに,教会の二人の指導者であるオーソン・ハイドとジョン・ページはオハイオ州に宣教師としてやって来てフェルプスを見つけました。フェルプスは彼らに大きな悲しみを表しました。彼らはフェルプスに預言者に赦しを乞う手紙を書くように励ましました。フェルプスは手紙を書き,自分の重大な誤りに対する悲しみを表明し,「聖徒や神が要求できるあらゆる点まですべて満足」するように行う意志を表しました。ハイドとページはその手紙をジョセフに手渡しました。返事を待っている間,彼は希望を持てませんでした。自分の裏切りがどれほどひどいものであったか知っていたからです。彼の不正直と苦しみは教会の多くの会員を苦しめ,死に至らしめたからです。
ジョセフは試練を受けたために,愛や友情,思いやりと親切は深まっていました。彼はその手紙を教会の指導者たちの前で読み上げました。指導者たちの多くはリバティーの監獄でともにいた人々です。そして彼らの気持ちを尋ねました。彼らはフェルプスが教会に戻るという結論で一致しました。それから預言者は教会の承諾を求めました。多くの会員はフェルプスの言動により苦しみました。挙手を求めると彼らもフェルプスを赦すということで全会一致しました。
ジョセフはフェルプスに手紙を書き,彼の決意を理解して「心は溶けて柔和で思いやり」を持っていることを伝えました。
「わたしはあなたのことについてエホバ(わたしはその僕ですが)の賛同に会うような方法で行動するのは神の御旨に沿っていると確かに感じており,明らかにされた真理と義の原則にかなっていると思います。そして自らを低くし,悔いている者に対する御父の特性はいつも辛抱強く,忍耐強く,慈悲を持っておられます。わたしはその模範にならい,同じ原則を愛して,同胞の救い手となろうと思います。」
ジョセフはフェルプスの告白が本当で悔い改めは純粋であると信じ,手紙を次ように結んでいます。「親愛なる兄弟,来てください。戦いは終わったのです。最初友は最後には再び友となるのです。」
夕食の後フェルプスが家に近付いているのを見つけると,ジョセフはテーブルから飛びだし,道を下り,彼に両腕で抱きつきました。
W・W・フェルプスは死ぬまで教会に忠実でおり,ジョセフ・スミスに対しても忠実でした。ジョセフが殉教した後,フェルプスは末日聖徒に好まれる賛美歌「たたえよ主の召したまいし」の歌詞を書き,預言者ジョセフの特質と使命を称えました。
資料
http://ldsmag.com/article/1/13081#.Ugludi-pVbA-email
注:
- ジョセフ・スミスについての記述のほとんどは以下からのものです。
http://www.josephsmithacademy.org/wiki/joseph-smith-physical-characteristics/#note-1511-18
トゥルーマン・G・マドセン「Joseph Smith: The Prophet」(ソルトレーク・シティー,ブッククラフト,1989年)
- マドセン,「Joseph Smith: The Prophet」
- マドセン,「Joseph Smith: The Prophet」
- 教会歴史参照2:379,428,436
この投稿はポーラが書きました。ポーラはモルモンの歴史について3本の投稿をしました。
ポーラ・ヒッケンは2000年から2013年までニール・A・マックスウェル宗教学問インスティテュートの編集者でした。ブリガム・ヤング大学にて英語の学士号を取得しました。マックスウェルインスティテュートのニュースレターである『Insight』を編集し,『Faith, Philosophy, Scripture, Hebrew Law in Biblical Times』(第2版),『Third Nephi: An Incomparable Scripture』を製作編集,『Analysis of the Textual Variants of the Book of Mormon』のコピー・エディターをしました。またマックスウェルインスティテュートの知的財産管理,権利と許可を監督しました。『エンサイン』,『リアホナ』,『チャーチニュース』,『FARMS Review