BYU(ブリガムヤング大学)は末日聖徒イエス・キリスト教会によって運営されている大学です。この教会はしばしば誤って「モルモン教会」と呼ばれることがあります。BYUの学生は、学部生として霊的に高揚され、刺激を受ける宗教のクラスを何学期にもわたって受講します。

(下記を参照してください)聖典研究のクラスに登録した学生がモルモン書についての考えや、ものの見方や、振り返ったことなどを彼らが知っている人への手紙として書いています。

これらのことを公表することによって、彼らの希望を実現する訳ですが、それは聖書に対する増補版としての聖典としてイエス・キリストに対する第2の証とみなされるモルモン書が、私たちの生活にとって意味があり、力強く、美しい記録であることを私たちに伝えようという望みです。モルモン書には古代アメリカに定住したイスラエルの支族の宗教的な歴史が書かれています。(出てくる名前はモルモン書の民にやがて来るキリストを待ち望むように教えた預言者たちの名前です。ニーファイ、リーハイ、アルマ、ヒラマンなどあまり聞き慣れない名前です。これらの名前が身近なものとなり、その霊感あふれる言葉を以下の手紙を通して読むとき、それが意味のあり神聖なメッセージであることが感じられるように願っています

モルモニズム:本当に百聞は一見に如かず?

よく「百聞は一見に如かず」というキャッチフレーズを聞きます。それは本当に真実なのでしょうか。私が本当という言葉で意味するのは、しばしば、見ることで信じさせられるという意味だと思います。でもどんなルールにも例外があるものです。たとえば、幻想やまじない師のトリックはこの点を使っています。そして現実には錯覚を起こさせるようなトリックを使っているだけで、あたかも超自然的なことをやっているかのように見せかけているのです。それに反して、信じることは必ずしも視覚に訴える必要はありません。天の父なる神とイエス・キリストに対する信仰がその良い例です。そのお二方の存在を信じるために、奇跡的な啓示が与えられたり、天使が現れたりすることがなくても信仰は持てることの方が多いのです。私たちは最初に信仰をもち、真実なことを信じることによって、いずれはそのような啓示を受けるようになるというのが一般的です。ニーファイ人はキリストが彼らを訪れてからこのことを行いました。主の復活後に起こったこのことは3ニーファイ11に書かれています。彼らは前に進んで来て、主の手と足にある十字架上での釘跡に触れました。それから進んで行って泣きました。「ホサナ、いと高き神の御名がほめたたえられますように。」そして主を礼拝しました。しかし、彼らが物理的に主を見、主の傷跡に触れた後に主を礼拝し、信じたのでしょうか。いいえ、彼らは既に主を信じていました。そして主に信仰をもっていました。ジョセフ・スミスは啓示を受けて、自分の信仰を「確認する」ためにしるしを求める者は、不義を犯す者であると私たちに教えました。私たちは信仰に基づいて証を強めるべきです。そしてそれは可能なことです。百聞は一見に如かずというのはいつも真理ではないのです。

敬具

クリスティン

この記事はbyustudentによって投稿されました。

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