モルモンの歴史における人名録より

ウィラード・リチャーズはジョセフ・スミスの暗殺において果たした役割で最もよく知られている人物です。彼は暴徒の襲撃に生き延び,命を助けるためにもう一人の指導者を隠しました。

communication-willard-medium-lf-300x300ウィラード・リチャーズは1804624日,マサチューセッツ州ホプキントンに生まれました。彼が10歳のとき,家族は同じ州のリッチモンドに引っ越しました。

家族は非常に宗教に関心があり,彼は多くの異なる宗教の集会に参加しました。彼は組合教会に入ることを選択しましたが,教会は彼の入信を認めませんでした。彼は結論を出す前に宗教についてもっと知る必要があると確信しました。探求を進めた後,彼はその当時には真実の教会が存在しないという結論に達しましたが,まもなく真実の教会が完全に回復されるであろうという印象を持ちました。彼は信仰を持っていると主張はしていましたが,真実の教会が回復されるのを待つことにし,別の教会に入ることはありませんでした。

モルモン書

1835年にいとこで後にモルモンの預言者となったブリガム・ヤングは別のいとこの家にモルモン書を置いていきました。ウィラード・リチャーズはそれを読み始め,ページを半分読んだところでこれは人が書いたものではなく,悪魔か神かのどちらかの業だと思いました。彼は10日間の間にモルモン書を最初から最後まで二度読み,それが真実だという結論に至りました。彼はモルモンが定着したオハイオ州カートランドに旅をするために,ボストン近郊の家に自分を引きとめていた診療所などを売却することを決めました。しかしこの結論を出してから間もなく,彼の筋肉は麻痺してしまいました。

兄のレビも医師だったので,ウィラードを治療しました。1836年二人はオハイオ州カートランドに向けて旅立ち,そこでブリガム・ヤングととどまりました。ウィラードは宗教について学び続け,18361231日にブリガム・ヤングからバプテスマを受けました。

多くの会員がより安全な道へと流れていた当時はモルモンの歴史において困難な時代でした。しかしウィラード・リチャーズは確固としていました。36日,彼はモルモンの神権の地位である長老の職を受けました。数日後,彼は最初の伝道に出るために東部に向かいました。彼は7月に帰還し,別の3人のモルモンの指導者とともに宣教師となってイギリスに派遣されました。

イギリスの宣教師

イギリスのプレストンで奉仕しているとき,彼は大祭司に聖任され,ジョセフ・フィールディングの顧問となりました。ジョセフはイギリス伝道部の会長として奉仕していました。78日に彼はモルモンの使徒となり,聖書の古代の使徒と同じ役割を果たすようになりました。9月には他の宗派の牧師の娘であるジャネッタ・リチャーズと結婚しました。彼はまだイギリスにいる間,モルモンの新聞であるミレニアムスターの編集部門で働きました。

彼は1841年にイギリスを発ち、イリノイ州ウォルソーに引っ越しました。10月にはイリノイ州のモルモンの町であるノーブーの市議会議員に選出され,家族とともにその町に移り住みました。彼は市議会の法務官,地方裁判所の書記官となりました。また神殿の任命された記録者となり,ジョセフ・スミスの私設秘書となり,ジョセフの個人的な日記をつけました。

ジョセフ・スミスの殉教

1844年,モルモンの指導者の多くは投獄されました。これは暴徒が攻撃したとき,教会をおとしめようとよく行われたことでした。ジョセフ・スミスと兄のハイラムは殺されました。ウィラード・リチャーズもその監獄にいましたが,弾丸が耳をかすめただけで命をとりとめました。後にモルモンの預言者となったジョン・テイラーは負傷し,ウィラードが彼を上階に運び,ベッドの下に隠しました。ウィラードは殺されると思いましたが,暴徒はジョセフ・スミスを殺害した後,モルモンの報復を恐れて逃げました。教会の会員に悲劇を伝えるのはリチャーズにゆだねられ,翌日彼と数人で遺体をノーブーに運びました。他の使徒たちは旅に出ていたり,亡くなっていたため,リチャーズは一時的に地元の教会員を管理することになりました。

モルモンが西部に移動を余儀なくされたとき,教会の歴史家として奉仕しました。彼は184624日にブリガム・ヤングやその他の人々とともに最初のグループとしてノーブーを発ちました。

第一日曜日にモルモンはユタ州のソルトレークバレーにいましたが,教会では二つの集会が開かれ,ウィラード・リチャーズは最初の集会で説教をしました。125日には教会を導く大管長会が再組織され,ブリガム・ヤングは預言者に任命され,リチャーズは第二顧問に任命されました。

1850年にはウィラード・リチャーズは教会が新たに所有した新聞,デゼレトニュースの編集者になりました。彼は1854年,ユタ州ソルトレークシティーで亡くなりました。

資料:

この記事はリン・F・プライスの教義と聖約のすべての人,2007年シーダーフォートからのものです。

この投稿はテリー・リン・ビットナーが書きました。彼女はモルモンの歴史について30本の投稿をしています。

Pin It on Pinterest

Share This