ボイド・ケネス・パッカーは末日聖徒イエス・キリスト教会(しばしば誤ってモルモン教会と呼ばれます)の十二使徒定員会の会長です。

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ユタに定住したモルモンの開拓者の伝統と,イエス・キリストの福音に生きるという強さと,勇気と,決意の特質を先祖から受け継いだボイド・ケネス・パッカーは生涯においてそれを体現してきました。

1924年9月10日にユタ州ブリガムシティーにてアイラとエマ・ジェンセン・パッカーの間に生まれ,11人きょうだいの10番目で5人目の息子でした。

パッカー家の子供たちは皆イエス・キリストの福音を教え,それに従って生きる家庭で育まれました。ボイドの両親の模範は,パッカー家の子供たちが幼少の頃から一人一人に教えられた教えとともに彼の人生に大きな影響を与えました。母親は何か教える機会があれば,それを逃さない人でした。その一つの例はパッカー家があやうく火事になった時のことでした。彼女は家族とともに町に出かけない方が良いという気がしたので留守番をしていました。それは子供たちに御霊の促しに従うことがどれほど大切かを教えるための格好の機会でした。

周りの世界について読み,学ぶようにという母親の勧めにより,ボイドは外に出るのが好きな子供に成長しました。母親はよく床に新聞紙を広げ,自然の中で見たものを描かせるようにしました。ボイドが自然を愛するようになると,すぐに鳥に非常に愛着を持つようになりました。生涯にわたってボイドは鳥を愛していました。時がたつと,ボイドは才能を伸ばし,美しい細密な鳥の彫刻をするようになりました。これらの緻密な彫り物を見ると,「生き物に対する繊細さと,創造主の芸術に対する敬虔さ」を感じることができます。

ボイドの父親は腕の良い,働き者の機械工でした。パッカー家は長年の間,ボイドの父親が自動車工場を,後に自動車会社を立ち上げるために苦労してきました。「子供時代,時には自分は貧しいと思ったこともありました。後にそれはほんとうではないことがわかりました。余分なお金がなかっただけなのです。わたしたちはいつも生活に必要なものは豊かに持っていました。」と追想しています。 少年時代,ボイドは重い病気になり,医師たちは肺炎を疑いました。しかしながら回復すると,歩けなくなっていました。大人になって初めてポリオであったことがわかりました。

宣教師/兵役時代

高校卒業後,ボイドはしばらくの間,ブリガムシティーの陸軍病院の建設に携わりました。教会の専任宣教師になれる年齢になったとき,第二次世界大戦が起こりました。

専任宣教師になるかわりに,1943年にボイドは陸軍航空隊に志願しました。20歳になると,パイロットとして卒業し,戦闘パイロットとしての訓練を受けました。訓練が修了すると,太平洋戦域への駐留を命じられ,戦後は日本にほぼ一年駐留しました。

日本に駐留している間,モルモン書(聖書と対をなす聖文)を研究し,宣教師となる多くの機会がありました。日本の人々と平和の福音を分かち合う機会はたくさんありました。日本にいる間,ボイドは自分の将来についても考える機会がありました。このときにボイドは教師になる決意をしたのです。

教育

1946年に兵役を解かれて帰還すると,ボイドはユタ州オグデンのウィーバーステートカレッジに入学しました。1948年にはユタ州立大学から準学士号を,1949年には学士号を,1953年には修士号を,1962年にはブリガムヤング大学から教育学の博士号を取得しました。

結婚/家族

ウィーバーステート在学中に,ユタ州ブリガムシティー出身のドナ・イーディス・スミスに出会いました。ボイドは普段出席していないワードでのお話を依頼されました。そのワードで,ドナ・スミスはボイドの話に非常に熱心に耳を傾けました。ドナは「こういう人と結婚したいわ。」と思いました。1947年7月27日にローガン神殿において,ボイドとドナは永遠に結び固められたのです。

年月が経ち,家族が増え,それに伴うあらゆる責任について尋ねられたボイドは当然のごとく次のように答えました。「すべて二つの言葉で説明できますよ。妻は完全です!」長年にわたってドナは夫の人生にきわめて大きな影響を与えてきました。家庭を中心としたいという彼女の思いと,夫が教会や地域や教育の分野で働くことへの励ましはボイドや子供たちからの愛と尊敬を受けるのは当然でした。

年月を重ねるにつれて,パッカー家はアラン,ケネス,デビッド,ローレル,ラッセル,スペンサー,ゲイル,キャスリーン,ローレンス,エルドンという10人の子供に恵まれました。 家族は長い間,彼にとって最優先するものでした。家にいるときは,心も家族に向け,ほかに優先するものはありませんでした。息子のアランは次のように言っています。「彼はわたしたちの族長です。今でも父親であり,それが最優先なのです。」

パッカー家は子供たち一人一人の必要を叶えるあらゆる機会に満ち,才能を伸ばし,望む教育が受けられるように支援してきました。

地域での奉仕

地域の奉仕に携わるというのはボイドにとって必要なことでした。彼はブリガムシティーの市会議員として4年の任期を務め,地方自治の経験から多くの教訓を学びました。彼は何度も次のように戒めてきました。「多くの人は組織を導く人の行動を,彼らの決断の元となる事実も知らないで批判する,ということが地方自治体で働いてわかりました。」生涯にわたり何度も教会,政府,地域にあってこの間違いについて警告してきました。

職歴/教会での奉仕

教育を受け,家族を持ち,仕事を始めてからも教会で奉仕する様々な機会がありました。教師,ステーク書記補佐,高等評議員の召しは多くの時間を費やす召しでした。教会での奉仕は個人の永遠の成長に不可欠なものであるということがわかっていたので,ボイドは与えられたすべての召しを受け,最善を尽くして献身し,義務を果たしました。

教師となる指導と教育を受け,ボイド・パッカーは自分の受けた指導を使う多くの機会に恵まれました。彼は教えるための教育を受けただけでなく,主の御霊を通して,生徒を引き付け,イエス・キリストの福音を教える能力がありました。教会でのセミナリーや宗教教育インスティテュートのスーパーバイザーとしての奉仕は個人的に現場の生徒や教師を訪問し,それぞれが生徒として,また教師として成長するよう助ける多くの機会がありました。

1949年にはセミナリーを教えることを始めました。何年も前に建設を支援したブリガムシティーの古い陸軍病院は連邦管轄のインディアンの生徒用の学校に変わりました。1949年から1955年にかけて,ボイドは教会教育システムでインディアンの教育のコーディネーターとして奉仕しました。

に,彼は教会の出版委員会で働くよう要請され,聖書,高価な真珠,教義と聖約やモルモン書などの聖文の多くの版の作成を支援することとなりました。

1961年には,ボイドは中央幹部の最年少として十二使徒定員会の補助に召されました。1964年にはパッカー長老は新たな責任としてニューイングランドステイツ伝道部の伝道部会長に召され,1968年まで奉仕しました。

1970年にはパッカー長老は十二使徒定員会の会員に召され,1995年には十二使徒定員会会長に召されました。

故ゴードン・B・ヒンクレー大管長の顧問のファウスト管長は次のように述べています。「パッカー長老は生粋の教師です。十二使徒は全員教師ですが,彼は十二使徒の教師なのです。」パッカー長老はモルモン書とそれが彼の人生に及ぼした影響について愛していることでも知られています。彼のすべての教えは聖文を中心としたものです。「確固として立ち,信仰を守りなさい。わたしはイエス・キリストの福音が真実であると証します。神は生きておられ,御業を進めておられます。教会は正しい道を順調に進んでいます。わたしは教会が神の預言者により正しく導かれていると証します。」

長年にわたりパッカー長老には多くの著作があり,その中には「熱心に教えなさい」,「聖なる神殿」,「御父の計画」があります。

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