モルモンの歴史の人名録より

オーソン・プラットは1811年9月19日にニューヨーク州ハートフォードで,ジェレド・プラット,チャリティー・ディケンソンの間に生まれました。彼は1814年から1822年までニューヨーク州コロンビアシティーのニューレバノンで暮らしました。そこで冬の間は学校に通い,算数と簿記を学び,夏には,農場での仕事をしました。余暇には,聖書を学んでいました。

1829年から1830年にかけては寄宿学校で,地理学,文法,測量学を学びました。1830年に,初めて末日聖徒イエス・キリスト教会について知りました。その教会の会員は時に通称モルモンと呼ばれています。

兄のパーレー・P・プラットはモルモンになり,オーソンがニューヨーク州カナーンで暮らしていた時,パーレーともう一人の男性が伝道の旅で到着しました。彼らはオーソンに福音を教え,彼はその教えを信じました。彼はバプテスマを受けることを承諾し,1830年の19歳の誕生日に受けました。

彼はニューヨーク州フェイエットに個人的にジョセフ・スミスに会いに行くことを決めました。それは320キロもの旅でした。ジョセフはオーソンについての啓示を受けましたが,それは教義と聖約34章に記されています。彼はひと月後に長老(神権の段階)になり, 最初のボランティアとしての伝道に出ました。自分の証がまだ十分強くないと思い込み,最初の伝道については不安を感じていましたが,神の選択を受け入れて伝道に出ました。この伝道がやがて力強い証を得ることになったと彼は確信しました。その後数年間,宣教師としてミズーリをはじめとする様々な東の州からオハイオ州カートランドまで広範囲にわたって旅をしました。カートランドではジョセフ・スミスの家に住み,教会が運営する成人教育プログラムである預言者の塾に参加しました。

1835年には十二使徒定員会が組織され,彼は定員会の会員に召されました。今日では使徒は奉仕の期間の長さにより順位がつけられますが,最初の十二使徒は同時に召されたため,年齢順となりました。そして彼は第10番目の使徒となりました。

その後,学校で教え,ジョセフ・スミスを含む多くの他のモルモンたちとヘブライ語の勉強に着手しました。その後カナダで伝道し,帰還後にサラ・M・ベイツと結婚しました。彼は結婚する1年前に彼女にバプテスマを施していました。結婚後,代数の勉強に取り組み,学び続けるという生涯の習慣を表しました。

結婚後1年ほどして,オーソン・プラットはニューヨーク州に引っ越しました。しかし,モルモンは激しくなる迫害からファーウェストに逃れたという事実にもかかわらず,1839年には彼は戻って来たのです。外国で伝道するために,使徒は神殿の隅石から出発するという預言がなされており,彼はその預言を成就することを望んでいたのです。7月には,モルモンであるために投獄された兄パーレーの釈放の調整の援助をしました。

1840年にイングランド,スコットランドの伝道に出発し,そこで福音を教える多くの小冊子の最初のものを書きました。この小冊子に初めてジョセフ・スミスが14歳で最初の示現を受けたことが印刷されたのです。この中には今まで記録されていなかったモルモン書の由来についての他の詳細も含まれていました。

帰還すると,彼はジョセフ・スミスに対して疑いの心を持つようになりました。そこで自分が証をまだ持っているか決められるまで,教会から名前をはずしてもらうよう申し出ました。この期間,背教者がシドニー・リグドンに手紙を送り,それをオーソン・プラットに見せるよう依頼しました。それにはジョセフ・スミスの不法逮捕にかかわった人との連絡が含まれていました。オーソンは自分がこの陰謀にかかわっていないことを知らせたかったのでジョセフ・スミス自身にこの手紙を渡しました。5カ月後,彼の証は回復し,ジョセフ・スミスは教会の会員として,また使徒としての回復の要請を受諾しました。

オーソン・プラットはワシントンD.C.に出向かい,あらゆる信仰の市民がカリフォルニア州やオレゴン州に旅をする時の保護を求める嘆願書を提出しました。その後彼は東部に留まり,伝道をし,ジョセフ・スミスが殺されたという報せがあるまでそこにいました。

その報せを受けて彼はノーブーに戻りました。モルモンがノーブーから追い出されると,彼はユタ州への手車隊に加わりました。彼とウィルフォード・ウッドラフは霊感により,隊を組織して旅をするように依頼され,そのようにしました。この時プラットは科学者として知られていました。旅の間,毎日気温と標高を記録するようにさせました。

オーソン・プラットは教会を導くようになったブリガム・ヤングが到着する4日前にソルトレイク渓谷に到着した最初のグループにいました。

1848年に彼は宣教師としてイギリスに伝道に出ました。滞在中,少なくとも15冊の新しい小冊子を書き,モルモニズムについて教える助けをしていた成功した新聞の編集をしました。

オーソン・プラットはユタにて天文学の一連の講義をして,それは大観衆を魅了しました。後にそれは書き写され,地元の新聞に掲載されました。プラットはまた政治の世界にも足を踏み入れ,立法議会で働き,7度下院議長に選出されました。

1853年から1881年にかけて外国で伝道を続け,新しい小冊子も書きました。彼は教会の歴史家であり,記録者となりました。

彼は2つの異例の割り当てに取り組みました。それはモルモン書を音声「デゼレトアルファベット」に翻訳し,その後にピットマン音声アルファベットに翻訳したことです。彼はまた聖書と共に使われているモルモンの2つの書物であるモルモン書と教義と聖約を定型化しました。彼は容易に学び,教室でも使用できるように節に分け脚注や参照を付けました。

プラットはモルモン書の1849年版を準備する助けをしましたが,編集者としての働きは1879年の編集がもっともすばらしいものであると考えられています。版の変更は広範囲に及ぶもので,長い書を分割して短い章にし,脚注に番号を付け,研究のための覚書(オーソン・プラット:『モルモン書の初期の支持者』参照)を付けることまでしました。

オーソン・プラットは1881年に最初の使徒の最後に亡くなりました。彼は偉大な数学者として知られていました。

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