ジョセフ・スミスと聖見者の石

translate-GoldPlates-secrets-lf-300x237イエス・キリストのもう一つの証であるモルモン書を翻訳する過程についての説明は預言者ジョセフ・スミスの筆記者を務めた人が大部分明らかにしています。ジョセフは声を出して翻訳し,筆記者はその言葉を書き留めました。ジョセフはウリムとトンミム(ヘブライ語で「光と完全」の意)を使っていたことを述べています。ウリムとトンミムはもともと旧約聖書の時代やその前後に聖見者の石として使われていました。それらは胸あてに取り付けられた「つる」にはめ込まれ,モーセの弟のアロンの聖なる衣の一部として説明されています。その胸あては預言者に代々受け継がれ,ジョセフ・スミスが石の箱の中に彼が後に翻訳した金版と一緒に収められているのを見つけました。そのようにして,記録とともに翻訳の手段も与えられたのです。解訳器の使用はユダヤの学者の関心を持つこととなり,二つの石の一つは言葉を示し,もう一方はその意味を示すと彼らは主張しました。二つの石は神託で,「はい」か「いいえ」の答えを出したという人もいました。また,ジョセフは一つの聖見者の石を持っており,それは時にモルモン教会と呼ばれる末日聖徒イエス・キリスト教会が所有しています。ジョセフは神から直接の啓示を受けるのに熟練するまでそれらの石を使っただけのようです。((Report of)“Two Days’ Meeting at Brigham City June 27 and 28, 1874,” Millennial Star, 36:32, 1874811日,499

ジョセフの妻,エマ・ヘール・スミスは一時筆記者を務め,1870年に次のように述べています。「主人が最初に翻訳したのはウリムとトンミムを使って翻訳したもので,それは後にマーティン・ハリスが失くしてしまった部分でした。その後,主人は小さな石,黒ではないけれども濃い色の石を使いました。…」オリバー・カウドリはジョセフの筆記者としては最も長い間仕え,1830年にジョセフを擁護しました。「オリバー・カウドリは証人喚問で,前述のスミスが金版とともに見つけ,それで書物を翻訳したガラスに似た二つの透明な石は銀のつるにはめ込まれていたと証言しました。これらの石を通して見ると金版に彫られた変体エジプト文字を英語で読むことができたのです。」また,彼は次のようにも述べています。「来る日も来る日もわたしは,モルモン書と呼ばれた歴史または記録をジョセフがウリムとトンミムまたはニーファイ人が「解訳器」と言っていたであろうものを使って,翻訳する言葉を途切れることなく書き続けました。」

ジョセフ・スミスが聖見者の石を帽子の中に入れ,光を入れないために帽子の中に顔を隠したと愚弄する人もいました。これは預言者であるジョセフの信用を落とす滑稽なものに聞こえます。しかしこれはデビッド・ホイットマーから出たことで,彼は翻訳の作業に立ち会ったことは全くなかったので、これはお世辞にも信用することはできません。翻訳の作業には努力を要するもので,オリバー・カウドリは翻訳をしようとして失敗しました。なぜなら彼はそれほど努力しなくても受けられると期待していたからです。モルモンの学者であるスティーブン・D・リックスは次のように述べました。

「…ジョセフが(聖見者の石と解訳器)を自由に使えたことにより,その書物の言葉や語句の基本的な意味を理解する能力が高まり,またこれらの言葉の関係をつかめるようになりました。しかし,実際に翻訳したのはジョセフ一人であり,文法的に正しい,適切な言葉に改める機会にはまだ余地がありました。翻訳を経験したことのある人なら,文を解釈することと実際に適切な翻訳にするということの間のギャップにはしばしば気づいていることと思いますし,これ以上改善する余地のない稀な翻訳であるということを敏感に察知していることでしょう。そのようにモルモン書の翻訳の過程における神の要素を最小限に評価するのは正しいこととはいえませんが,人的要因を否定するのも誤った方向に導き,潜在的に危険でもあります。」

モルモン書を訂正する?

言うまでもなく,モルモン書は基本的には長い文章として世に出ました。ジョセフは初等学校教育をたった3年ほどしか受けておらず,妻のエマは神から預言者として召されたときに彼は正しい文章を作るのも大変だったと述べています。年を経ての彼の驚くべき成長は彼の生涯について読んだ人々を驚かせます。学校にはほとんど行けませんでしたが,彼は優れた知能を持っていただけでなく,天から十分に教えられ,地上の哲学者や宗教指導者のだれよりもより深い知識を明らかにし,これまで生きたほかのどの預言者よりもより多くの聖文を世にもたらしました。ジョセフと末日聖徒イエス・キリスト教会を悪く言う人の中にはモルモン書に4000の変更があったと主張します。元の聖文には章や節の区切りがなかったので,それに対してわたしたちは「それで全部でしょうか?」と答えるでしょう。

モルモン書を翻訳するのにどのくらいかかったか?

ある人はジョセフ・スミスがモルモン書を自分で書いたと主張し,一方ジョセフ・スミスが一部を盗用したと主張する人もいます。これらの主張はずっと以前に誤りであることが証明されましたが,まだそのように思っている人もいます。現場では実際には盗用する本など手にすることもできませんし,ほとんど教育も受けておらず,絶え間ない迫害にいつも脅かされ,家庭においても大きな試練(子供の死,妻の病気,手書き原稿の紛失など)があったジョセフ・スミスが531ページ(訳注:英語版)もの書物を書いたり,盗用できるでしょうか。ジョセフの妻エマはジョセフは翻訳するときにほかの本はまったく持っていなかったと証言しています。

ジョセフはモルモン書のほとんどを1929年の47日から630日の間に翻訳しました。その前は最初の116ページは仕上げるのにかなりの時間を要しました。その部分はマーティン・ハリスに「借りられ」,紛失してしまいました。ジョセフはこれらのページを再度翻訳することはしませんでした。なぜなら主はその状況を見越しておられ,金版の別の部分で似た部分を与えてくださっているからです。

その翻訳は驚くべき業績で,47日から630日の85日間で仕上げられました。言うまでもなく,その期間ずっと翻訳にかかりきりだったわけではありません。預言者と筆記者はそのほかに食事,睡眠,求職活動(食糧が尽きたときにお金を得るために一度)をし,アロン神権およびメルキゼデク神権を受け,ハイラムとサミュエル・スミス(当時ハーモニーに来ていた)を改宗に導き,バプテスマを施すために,少なくとも1回(おそらく2回)30マイル(約48キロ)離れたコールズビルに旅をし,現在は教義と聖約の章となっている13の啓示を受け,それを記録し,ハーモニーからフェイエットへ引っ越し,モルモン書の版権を取得し,数日間フェイエット近郊で伝道し,数人にバプテスマを施し,3人のそして8人の見証者への現れを経験し,モルモン書の出版の手配を始めたのです。

モルモン書の翻訳は神の力によってのみ達成される

joseph-smith-translate-book-mormon元の手書き原稿の残った部分から見ると,ジョセフは一度にたくさんの言葉を口述していたようです。オリバーはこれらの言葉を確認のために復唱し,それから彼らは続けました。エマは後にジョセフ・スミスは食事の後や朝起きたときに,すぐに前に残したところから始めたと付け加えています。(“The Saints’ Herald261879101日]:290)検索したり,内部を照らし合わせてみたり,編集上の書き込みで時間を使うことはありませんでした。1834年にオリバーは次のように述べています。「天からの霊感により口述する声のもとに座り,この胸に最高の感謝の念を呼び起こしたこれらの日々は決して忘れることはできない。日々,わたしは彼が翻訳しながら口にする言葉を絶え間なく,書きとめ続けた。」(“Messenger and Advocate1 [183410]14

モルモン書の内面的証拠

言うまでもなく,モルモン書の考古学的証拠はあり,その数はいつも増えています。しかし驚くべき内面的証拠もあります。地理的な参照が完全であることや,名前の使い方の一貫性や,ヘブライ語の詩文体はその一例です。

英語の文章における状況的証拠は,翻訳がきわめて正確であることを示唆しています。例えば,1ニーファイ18でリーハイが語った言葉のうち21語はアルマ3622に正確に引用されており,この二つの独立した翻訳が同一であることは長く複雑な記録であるモルモン書に明らかになった内面的正確さの典型です。さらに,複数の型にはまった表現,ヘブライ語,複数の著者の文体のくせ,様々な対句法や幅のある交差対句法(モルモン書原作者,モルモン書文学参照),ある種のセム語の正しい名前といくつかの原文の変異,欽定訳ではまったく明らかではありませんが,翻訳は一貫して元となった文章に忠実であったという主張を補強しています。

この投稿はゲールが書きました。ゲールはジョセフ・スミス,預言者に関して3本の投稿をしています。

ゲールはモア・グッド・ファウンデーションのマネージングディレクターです。末日聖徒イエス・キリスト教会の改宗者です。

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