マリオン・G・ロムニーは1897年9月19日にメキシコのコロニアフアレスにて誕生しました。生後1週間で,彼の父親は伝道に出ました。教会の初期の頃は結婚した男性でもしばしば家を出て伝道に召されることがよくありました。宣教師は聖書で求められているように無報酬だったので,母親は裁縫や編み物でお金を得て息子を養い,同時に夫にも仕送りをしました。
父親が不在のとき,マリオンは重い病気にかかりました。病を癒すための神権の祝福により,命を取りとめた彼は神権の力の証を持って成長しました。父親が帰還しても家にはほとんどお金がありませんでしたが,マリオン・G・ロムニーは勤勉に働くこと,大義のために犠牲を払うことを学びながら成長しました。それらは貴重な経験となりました。彼は父親が家族のすべての食物を作るのを手伝い,それは彼にとって自給自足の価値を教えました。
コロニアフアレスではほとんど子供たちの教科書がなかったので,学校に持って行く最初の教科書は聖文でした。結果として彼は幼い頃から聖文にとても詳しくなり,これは一生の役に立つ宝となり,特に晩年の教会での召しに役に立ちました。後にモルモンの預言者となったスペンサー・W・キンボールは彼について次のように述べています。「ロムニー管長はだれよりも早く論点について,彼が深い知識を持つ聖文に照らし合わせ,問題を非常に鋭い視点で聖文につなげることができます。」(1979年10月5日,地区代表セミナー)
メキシコのコロニアでの生活はしばしばモルモンにとっては恐ろしいものでした。なぜなら彼らは宗教よりもむしろアメリカ人であるということで非常に迫害されたからです。1912年に革命が始まり,家から10マイル(約16キロ)ほどのところの銃声が聞こえました。軍隊は頻繁にやって来て,モルモンから略奪しました。しかしこの恐ろしい時間の間,母親は子供たちに心を落ち着かせる賛美歌を歌って慰めました。
14歳になったとき,家族は他の入植者とともにアメリカ合衆国に逃れるのを余議なくされました。それは彼らの国籍のためでした。何の前触れもなく,家族全員でただ一つのスーツケースに詰めることしかできませんでした。逃げるとき,二人の兵士が止めて、入植者たちに鉄砲を向けました。お金は盗られましたがマリオンは守りを祈り求め,誰も殺されませんでした。
家族は最初にカリフォルニア州に落ち着き,彼は家族が稼ぐのを助けられるように大工仕事を学ぶために学校を一年飛び級しました。アイダホ州に引越したとき,家の畑の植え付けや収穫のために学校はほんの少ししか出席しませんでした。ユタ州では父親が大学の単位を修了するために学び,マリオンはまた一年休学して,父親が教育を受ける間,家族を支えるために働きました。
一家の経済状況は大変でしたが,彼は伝道に出るために仕事の休みをとりました。貯金を使い果たし,少し借金もしましたが,伝道から帰還して仕事についてから返済しました。
家族はアイダホ州レックスバーグに移り,父親は当時2年制大学に移行中のリックスアカデミーの学長となりました。マリオン・G・ロムニーは学生として学校に通い,バスケットボールとフットボールチームのキャプテンになりました。1920年に卒業し,1926年に修士号を取得し,ユタ大学から1932年に法学士の学位を取得しました。
1924年9月12日にアイダ・ジェンセンと結婚しました。彼女はマリオンの父親がリックスアカデミーの学長になった後,教師として雇われていました。マリオンが伝道から帰って6年後に結婚して,二人は学業を続けました。
マリオン・G・ロムニーは法律の分野で郡検事補,地方検事補,市検事補,州議会議員として働きました。
モルモンはボランティアで奉仕するので,最も高い位置にいる指導者であっても,普通の職業に就いていた人がなります。正式な神学校に在籍して,宗教的指導の訓練を受けることなく,生涯において個人の学習や通常の教会の集会に出席します。そして,ロムニーも思わぬところで教会の高い地位の指導者として仕えることになりました。彼は最初十二使徒定員会の補佐に召されました。この職に召された最初の人となったのです。10年後,彼は使徒に召されました。これは生涯のそして専任の無給の地位ですが,ほかに支援の手段を持たない人はわずかな固定給を受けますが,什分の一基金からではありません。
20年後,マリオンはモルモンの預言者の第二顧問になりました。教会は預言者と二人の顧問(場合によって三人のことも)から成る大管長会により運営されます。二番目に高い指導者は使徒です。はじめにハロルド・B・リー大管長に仕え,その後スペンサー・W・キンボール大管長に仕えました。1982年に彼はキンボール大管長の第一顧問になりました。3年後,定員会に召された日付順に先任となる十二使徒定員会の会長になりました。
使徒として,メキシコ,ヨーロッパ,南アフリカ,アジアの教会を監督し,メキシコで最初のスペイン語を話す人々のためのステーク(教区)を組織しました。また,すべてのふさわしい男性会員に神権が与えられるという啓示に大管長会の一員として署名しました。
マリオン・G・ロムニーは1988年に亡くなりました。
資料:この記事は『教義と聖約のすべての人』,リン・F・プライス,シーダーフォート2007年,「マリオン・G・ロムニー会長,十二使徒定員会会長」,マービン・K・ガードナー『エンサイン』,1986年4月号から抜粋しました。
この投稿はテリー・リン・ビットナーがしました。彼女はモルモンの歴史について30本の投稿をしています。