モルモンの歴史人名録より

エライアス・ヒグビーは1795年,ニュージャージー州ギャロウェイで生まれました。彼は1832年に末日聖徒イエス・キリスト教会の会員(時にモルモンと呼ばれます)になりました。その頃,オハイオ州シンシナティに住んでいましたが,彼はバプテスマを受けるために当時モルモンが住んでいたミズーリ州ジャクソン郡まで旅をしました。その後,家に戻った彼は,翌年,家族と共に聖徒と合流するためにジャクソン郡に引っ越しました。

ヒグビーは1835年に最初の伝道に出て,ミズーリ州,イリノイ州,オハイオ州,インディアナ州へと旅をしました。オハイオ州では,カートランド神殿の建設に従事し,完成するまでそこに留まりました。1836年に伝道を終え,家族を連れてミズーリ州コールドウェルに引っ越しました。ここで彼は判事となり,教会にとって多くの重要な仕事を成し遂げました。

1838年3月には,ジョセフ・スミスは聖書のイザヤ書に関する質問に答えています。エライアスの質問は近代の啓示であり,教会歴史の重要な資料でもある教義と聖約に答えられています。その書物で彼について触れられているのはここだけです。彼はイザヤ52章の1節と2節について疑問がありました。1節はどの民を指しているのか,2節の「シオンがその首の縄を解き捨てる」とはどういう意味かを尋ねました。(教義と聖約113章参照)

その年の4月6日,モルモンは最初の総大会をミズーリ州ファーウェストで開きました。そこでエライアス・ヒグビーはジョン・コリルと共に教会の歴史家として支持されました。

10月には,暴徒たちの脅しや危害が増し,教会員は非常な危険にさらされました。彼らは3人のモルモンの男性を誘拐し,その晩殺すと脅しました。モルモンは必要にせまられ民兵を持っていましたが,ヒグビー判事はその報告を受けると,ヒンクル大佐に誘拐された人々を救助するために男性たちを送るように指示しました。70名の男性が安全に救助できる希望を持ちながら出発の準備をしましたが,物事は計画通りには進みませんでした。彼らが到着する頃,夜が明け始め,敵は影に隠れていましたが,近づいてくるモルモンは光の中ではっきりと見えました。多くの人々は負傷し,また殺されました。これは後にクルックトリバーでの戦いとして知られるようになりました。

間もなく,判事は暴徒たちにより州から追い出され,彼はイリノイ州コマースに落ち着きました。歴史家として,彼は集団暴行や教会に対する無法の結果,モルモンの損失についての宣誓供述書を集める支援をしました。この企画が完了したとき,彼はジョセフ・スミスと共に合衆国の大統領に会うためにワシントンD.C.に赴きました。マーティン・ヴァン・ビューレン大統領は彼らの訪問を二度受けました。最初は敵対していましたが,やがて申し立てが有効であると認めてくれました。しかしながら二度目のときは,彼は侮辱的な態度をとり,モルモンの理念は正しいが,援助しようとすれば自らがミズーリ州を失うと言いました。

このような政治的利己主義に直面したため,彼らは連邦議会に働きかけました。彼らは陳情書と宣誓供述書を提出した後,ジョセフ・スミスは教会の用事でオハイオ州デイトンに戻り,ヒグビー判事はワシントンD.C.に留まり戦いを続けました。1840年3月4日には,連邦議会はその件について司法権はないと決定しました。(連邦政府が憲法を州レベルで執行できるという修正第14条は,南北戦争後に通りました。)

エライアス・ヒグビーはその3年後にイリノイ州ノーブーにて亡くなりました。

この記事は2007年シーダーフォートでのリン・F・プライスによる教義と聖約の中のすべての人からのものです。

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