2013年1月2日,テリー・リン・ビットナー 使徒ファイルより

J・ゴールデン・キンボールは1853年ユタ州ソルトレイクに生まれたモルモンの指導者です。父親はヒーバー・C・キンボールで母親はクリスティーン・ゴールデンです。幼少時代は非常に貧しく,後にカウボーイ,御者として働きましたが,これが後に彼が「口の悪い使徒」として知られる道に導いたのです。キンボールは1886年七十人に召されました。七十人はイエス・キリストの特別な証人として奉仕します。彼は1938年に85歳で亡くなりました。

J・ゴールデン・キンボールはモルモンの普通の中央幹部ではありませんでした。彼は民族の英雄としての立場があり,口が悪く,行動や話すことは型破りでした。しかし彼のやり方が伝統的なものではなかったにしろ彼には証がありました。彼の意見は非常にユーモアに富んでいたので,モルモンの間ではしばしば楽しみのもとでした。

今日,末日聖徒イエス・キリスト教会の日曜の集会は3時間であり,一般的にその他の集会も時間は割り振られています。過去においては,時間は無制限でした。ある大変な一日は,昼休みもなく説教が続きました。J・ゴールデン・キンボールはほとんど死にそうになった4時頃になって最終話者の割り当てを受けた,と後に記しています。彼は信者が教会の機関誌を購読するように励ますことになっていました。彼は立ち上がって次のように言いました。「もし家に帰してくれるなら,機関誌を購読するという人は手をあげてください。」皆一斉に手をあげ,集会は終わりました。

ある大会で話者が罪人と悔い改めについて長く,厳しい説教をした後の話者は,J・ゴールデン・キンボールでした。彼はその話の否定的なものには感動せず,自分の言葉で次のように言いました。「さて,兄弟姉妹の皆さん,わたしたち皆にとって一番良いのは家に帰って自殺することのようですね。」

南部での伝道は彼にとって大きな成長のときとなりました。当時,モルモンでいるのは大変なことでした。南部では銃を持つ人々にとって,解放された奴隷や渡り者は恰好の餌食でしたが,モルモンの宣教師も同じでした。モルモンの宣教師は時には殺されたこともありました。クー・クラックス・クランも同じようにたびたび銃を彼に突き付けました。

彼の本心は伝道には出たくありませんでした。彼は30歳で,自由を謳歌していました。しかし,母親が当時教会の大管長だったジョン・テイラーに会うように言いました。彼はそれに従いましたが,わざとできるだけ宣教師とはかけ離れた格好で行ったので,宣教師にはふさわしくないと言われることを十分期待して向かいました。彼は汚れた革ズボンとシャツを着てカウボーイブーツをはき,銃を二丁,さやつき猟刀を持って行きました。残念なことに,母親の手紙の方が先に届いていて,テイラー大管長は彼が父親と同じにようにすばらしい宣教師になると確信していると伝えました。キンボールは降参して南部へ旅立ちました。

チャタヌーガに着くと,彼は同僚に森に行って賛美歌を練習し,声に出して祈り,伝道しようと提案しました。キンボールはうまく歌えませんでしたが,少し練習すると,御霊の助けを感じ,賛美歌を歌えるようになりました。キンボール長老はそれから説教をし,自分が練習していた説教について,主の助けを感じて喜びました。その後,同僚は閉会の祈りをし,目を閉じ,両手を宙にあげました。(これは現代のモルモンはしません。)祈りは非常に長く,彼らが目を開けたときには,4人の銃を持った男たちに囲まれていました。その状況を受け入れ,キンボール長老は次のように言いました。「もう一つわかったよ。これからは祈るときは片目を開けておくとしよう。」(大会報告1925年10月158ページ)

この賛美歌の練習はまれな方法で効果をもたらしました。彼とチャールズ・A・ウェルチは二人ともうまく歌えませんでしたが,バプテスマの準備をしていました。暴徒たちが集まり,そのまま続けるなら川に放り込むと警告しました。二人は彼らを無視し,賛美歌を歌い始めました。それは後にキンボール長老は「真理,胸に照り」の状態になったと回想しています。暴徒たちは魅了されたようになり,静かに立ち尽くしていました。長老たちは穏やかにバプテスマを執行し,受けた人々を教会の会員として確認するために暴徒たちから離れました。しかし,戻って賛美歌をもう一度歌ってほしいという伝言が来ました。暴徒のリーダーであるジョセフ・ジャービスは教会に入りました。賛美歌を信じ,聖霊の存在が彼の改宗につながりました。

聖霊の働きに,より通じるにつれ,彼の証は成長しました。「わたしはよく神の御霊をいつ感じるのかと思いました。わたしは南部にいたとき,自分が興奮して,扇情的になって,顔が紅潮し,首の血管がふくらむそのようなときに無知にも自分はそれが聖霊だと思っていました。そのときからわたしは神の御霊は,喜びと,平安と,忍耐と,長く耐え忍ぶ優しさを与え,赦しの精神を持ち,人の子らを愛するようになるということを学びました。」(大会報告1918年10月,29ページ)

彼の最も力強い経験は後に彼が伝道部会長として再び南部で奉仕しているときに起きました。これは彼が若い宣教師たちを管理し,伝道の業を監督していることを表していました。集会をするための教会堂はなかったので,宣教師の集会を森でしました。そこで何人かの宣教師は場所をきれいにしていました。一人の宣教師の足がひどく腫れてしまいましたが,そこには医者はいませんでした。キンボール長老は宣教師に集会には行くことはできないと言いましたが,宣教師は集会に出られなければ自分の伝道はだめになってしまうと感じると言いました。彼はその集会に出ることを一心に望んでいました。キンボール長老はその宣教師の信仰に感動し,二人の宣教師に彼を森の中に1マイル(1.6㎞)ほど運ぶように依頼しました。宣教師たちはそのようにし,集会が始まったとき,キンボール長老は宣教師たちに何を説教していたのか尋ねました。

彼らはイエス・キリストの福音を教えていたと答えました。彼は宣教師たちが神権者として教えたか,病人を癒すための力と権能を持っていたか尋ねました。宣教師たちは同意しました。彼はそれから宣教師たちに,もし信じていないのならなぜ説教をするのか尋ねました。足を腫らした宣教師は自分は信じると言って,切り株に座りました。他の宣教師たちは要点を理解し,その宣教師の周りに集まり,癒しの祝福を授けました。彼は皆の見ている前で癒されました。それから彼らは病気だった他の宣教師たちも癒しました。

J・ゴールデン・キンボールは口の悪い使徒として知られてはいましたが,逸話から浮かびあがるのは,…実際は時には型破りであっても,あつい信仰と,優れた指導性を持った姿なのです。

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