歴史的物語
タマ・ダーフィー・マイナー・ホワイトの父親エドモンド・ダーフィー(1788−1845)についての回想からの抜粋。エドモンドは1831年に、末日聖徒イエス・キリスト教会に改宗しました。この教会は、しばしばはからずも「モルモン教会」と呼ばれます。 彼は1845年に、イリノイ、ハンコック、グリーンプレーンにあるアイザック・モーリー居住地で怒った反モルモンの暴徒に射殺されました。
私の父の名前はエドモンド・ダーフィーで、オランダ人の子孫で、1788年10月3日にロードアイランドで生まれました。母の名前はマグダリーナ・“レーナ”・ピックルで、1788年6月6日に生まれました。彼女の両親はオランダから来ました。私は1813年3月6日にニューヨーク、マディソン郡、レノックスで生まれました。そこで私が9歳になるまで居て、その年にオスウェゴ郡アムボイに引っ越しました。父は若干の土地を買い、家を建て、小さな農場をつくり、仕事としてはたいてい大工仕事か機械修理工をしていました。私たちはそこに1830年の6月1日まで居て、父はもっと土地を買いました。そこにはたくさんの楓の木がありました。それから、父は西に行きたいと思い、メイプル・シロップのとれる農場を売って、オハイオの南部に向けて出発しました。私たちはキャムデンムラを通り、運河に出、運河を通ってバッファローに行き、ヒューロン郡のブリッグルズ(ラグルズ)に行きました。
モルモン宣教師モルモン書を紹介する
父は土地を買い、家を建て始めました。翌年1830年の冬、私たちはモルモンとその「金の聖書」について聞きました。 次の春ソロモン・ハンコックがジョセフ・スミスについて布教しにやって来て言いました。天使モロナイがそれらのものをジョセフ・スミスに明らかにしたと。ソロモン・ハンコックは私たちメソジストやキャンプベライトのところに来て、私たちの集会で説教をしたものでした。私たちは彼のもとに聞きにいき、彼のメッセージに驚きました。というのは、噂とはずいぶん違っていたからです。
このことが起こったのは1831年4月のいつかで、父のエドモンド・ダーフィーは5月の半ばにバプテスマを受け、母と姉のマーサと兄のエドムンドは6月の最初にソロモン・ハンコックからバプテスマを受けました。
エドモンドはモルモンの宣教師として、1831年の12月から1832年2月まで、ニューヨーク、ジェネシー、チョートーカで伝道しました。
カートランドの聖徒のところに行く
父は大工道具、穀物の種、農耕道具を携え、1832年2月にほかの人たちといっしょに、オハイオのカートランドに向かいました。家族全員が行って住む家を建てるためです。1833年の秋に戻って来て、農場とすべての所有物を売り、カートランドに向かったのは1833年の5月の最初です。主は言われました。カートランドでの5年間のことですが、「彼はしっかりとした基盤を得られる」と。農場を建て、いくつかの家を建て、そこに住む備えをしました。
非常に多くのことがこの時期に起こり、それらについては、私は書く時間がありませんでした。そして、記録の一部は見つけることができません。土地が値上がりし、高い値段で売れ、大規模の土地の投機買いが起こりました。そして多くの末日聖徒が教会を去りました。
モルモンに対するミズーリ住民の暴徒の迫害
1837年の春、父は農場と財産を売り払い、ミズーリのコールドウェル郡に向かい、そこでその年の夏と秋の間とどまり、ファーウエストから6マイルのところにある「ログ・クリーク」と呼ばれる所に住みました。私はデヴィッド・パッテンが殺された時にそこに居ました。その時彼らはたくさんの人たちを囚人としてとらえ、敵の手によって末日聖徒は命を奪われました。
暴徒が集まり、多くを殺し、モルモン全員をアダムオンダイアーマンからファーウエストに追い出しました。それでも満足せずに、先頭になる知事も含めた州の人々が何千とやって来てファーウエストから追い出しました。彼らはジョセフ・スミスとシドニー・リグドン、私たちの指導者と十二使徒をとらえようとして、また彼らは捕まえられる者をすべてとらえ、牢獄に入れようとしました。あるものは出獄することができましたが、あるものはそことどまり、ひどい仕打ちを受けました。彼らは人の肉を食べるようにさせられたのです。しかし、ジョセフは「食べないように」告げました。主の御霊が彼にそれが人の肉であることを告げたからです。そのように、私たちは物を奪われ、打たれ、家から追い出され、私たちの命を脅かされ、私たちの敵からあらゆる面でひどい扱いを受けました。天の真理の敵はこぞってやってきました。何百人もの暴徒が私たちの家に押し寄せ、女と子供しか居ませんでした。私たちの男たちを理由もなく牢獄に入れたからです。唯一の理由は彼らがモルモンであり、福音の真理を信じたことでした。彼らは私たちが拳銃、ピストル、火薬、あるいは肉包丁などがないかと尋ねました。
末日聖徒が経験しなければならなかったことに対する気持ちを表現できるのは、それを直に経験し、目撃した人たちだけです。
1839年に私たちはクインシーに渡り、川を上りイリノイ、ハンコック郡、リマと呼ばれる所につきました。そこで私たちは家を建て、小さな場所を買い、それを修理してしばらくの間住みました。しかし、悪魔はまだ死んでいませんでした。ほどなく、何人かの者がリマに行き、そこで、それから呪いの言葉を吐き、物を裂きながらやって来て、女性や子供たちだけでなく、男たちをも恐れさせました。
イリノイのリマで、冷血の暴徒はエドモンドを殺害した
異邦人と暴徒は私たちを脅し、どのように彼らが(モルモン)を殺しそして追い出すかを告げました。彼らはリマから私たちを殺害し追い出し、私の父エドモンド・ダーフィーを銃撃し、1945年11月19日でしたが、彼は即死しました。彼は彼らになんの害も与えませんでしたが、むしろ、生涯にわたって、彼らに真理と正義と偉大さと道徳と勤勉さについてのよい原則を教えたのです。
しかしこの出来事の前に、彼らはモルモンを神父モーレイ居住地から追い出し、彼らの病人を見捨てました。彼らをすべて追い出すか、死ぬままにしておいたのです。私の兄弟ニーファイを寝台のまままとめて、それを外に放り出しました。彼が病気だったときです。彼らは樫の木の山積みに行って、2つの束をとって来るとそれに火をつけ、家の上に投げて彼らは次の朝やって来ると言い残して去りました。父は別のところに移ろうとしていました。そして彼らは戻って来るとあらゆる拳銃を発砲させ、略奪し、放火し、家とかぐ時計と衣類、大工道具などすべてを焼き尽くしました。道具からとった鉄は樽に入れました。そこら中のものがすべてハイになり、暴徒は家から家へと回り、病人であろうと健康であろうとかまわず追い出し、モルモンの家をすべて焼き尽くしました。
ノーブーから送られた男たちは馬車を準備してリマに出発しました。彼らは日夜旅を続け焼き出された家族の支援にあたろうとしました。私の夫はその一人であり、一晩中旅し、風邪を引きました。それで熱を出し、長い間病気でした。暴徒は戻って来て分捕り品をとりに来るだろうと言いました。彼らはほとんどのことを終わっていました。それで日曜日にかけてとどまることにしました。暗くなると暴徒は戻って来て馬小屋の近くでたき火をしました。モルモンは彼らが家を焼いてすぐに出て行くと思っていました。しかし暴徒は小屋の中に残り、彼らの中に送られた男たちが来た時、彼らは12発ほど発砲しましたが、父だけが殺されました。
暴徒はたき火を様々な場所で起こしました。1つはトウモロコシの皮などの場所で乾燥していたのですが、少し燃えただけで、火は消えてしまいました。これからも分かるように、彼らは主が許される範囲を超えて残虐な行為をすることはできませんでした。
B.H.ロバーツはエドモンドについて書いています。「ダーフィー氏は、この世の中で最も勤勉で、人を傷つけまいと努力する人で、善良な人の一人でした。」この下りは、B.H.ロバーツ著「教会歴史」の2014ページにあります。
この記事はdelisaによって書かれました。彼女は末日聖徒イエス・キリスト教会の会員で、66回引っ越しをしましたが、この美しい地球にまだ飽きていません!彼女は人々、言語、歴史や文化人類学、世界の宗教文化が好きです。彼女の生涯にわたる熱情は宗教的な象徴、とりわけ古代と現代における神でとの関連について研究することです。彼女のご主人のアンソニーと彼女はブルドックのウエリングトンと、冒険、旅行、映画、オートバイ、友だちや家族と過ごす時間が好きです。