モルモンの歴史人名録より
ウィリアム・ハンチントンは初期の末日聖徒イエス・キリスト教会(教会員はしばしばモルモンと呼ばれます)の会員で,勇気と信仰により困難に立ち向かった模範です。
彼は1784年にニューハンプシャー州で生まれました。1806年にはジーナ・ベイカーと結婚しました。1811年までは財政的に非常に豊かでしたがその後,財産を売り払うことになりました。1812年に戦争が始まってから,不運なことに深刻な財政危機に陥りました。1816年に兵役を解かれると,再び財政状況が好転しました。彼は神の本当の教えを知るために,聖書を読み始めました。ハンチントンはアルコールはふさわしくないという霊感を受けたので,飲酒をやめました。彼は長老派教会の会員になりました。
ウィリアム・ハンチントンは,既に教会には入っていたのですが,どの教会が真実なのか祈るようになりました。祈りの答えはどの教会も真実ではないということでしたが,彼が生きている間に真実の教会が回復されるというものでした。また,その教会はイエス・キリストが新約聖書の時代に設立したのを同じ教会であるということを知らされました。このことがわかってから,彼は必然的に教会を離れ,祈りを通して学んだことを宣べ伝えるようになりました。結果として彼と,彼を支えた妻は社会からのけ者にされました。
真実の教会を探し求め続けている間,彼はモルモン書を見出し,それを読んで信じました。そのようにして彼はモルモン書について教えるようになりました。1835年に彼と妻と二人の子供たちはバプテスマを受けました。
1836年には,二人の子供とその家族はモルモンが住んでいたオハイオ州カートランドに移住しました。翌年,彼は事業をたたみ,彼らと合流しました。農場を3000ドルで買い取りましたが,所有者にごまかされ,お金を失い,農場を手にすることはできませんでした。ミズーリ州に住んでいたとき,彼は定職につきましたが,銀行の破綻で500ドルを失いました。家族は財政的に困難になり,必需品の多くも手にすることができませんでした。もがき苦しむ人とは違い,彼は神に従うならば安寧な生活を約束されるとは決して期待しなかったようなので,教会や神に忠実であり続けました。
ミズーリ州での迫害は命の危険に及ぶようになり,教会を導いていた大管長会の3人は冤罪で逮捕されました。使徒の頭であったブリガム・ヤングは教会員がミズーリ州を脱出する計画を立てました。ウィリアム・ハンチントンは移動計画のための委員会の長に選ばれました。彼の妻はこの間に亡くなり,その後1年少ししてからエドワード・パートリッジの未亡人であるリディア・パートリッジと再婚しました。
ウィリアム・ハンチントンは近代の啓示である教義と聖約に記されている啓示により,高等評議員に召されました。この期間,彼はまたイリノイ州ノーブー神殿の隅石を据え,その建設を助けました。
1844年には,ジョセフ・スミスとその兄ハイラムは殺されました。ウィリアム・ハンチントンは遺体の埋葬を手伝いました。このことが再びモルモンたちの住んでいた場所からの脱出に拍車をかけ,ロッキー山脈への移動の計画を立て始めました。ブリガム・ヤングは独身の男性たちの一団を先発隊として,穀物を植える場所を選ばせて,教会員が移動するのを容易にしようとしました。しかしだれもこの厳しい環境に残ることを望まなかったので,ヤングはかわりに町全体をどのように移動させたらよいか道を探る複雑な課題に取り組みました。
2月9日にウィリアム・ハンチントンは町を出て,西部への旅に出ました。彼は隊長に任命されました。ピスガー山に着くと,何人かのモルモンはそこで野営しており,彼はその長に任命されましたが,8月に10日間寝込んだ後,亡くなりました。
この記事は2007年シーダーフォートでのリン・F・プライスによる教義と聖約の中のすべての人からのものです。