ロレンゾ・スノーは1814年4月3日,オハイオ州にて父オリバーと母ロゼッタ・ペティボーン・スノーの間の7人の子供の5番目として生まれました。最初の2人の子供が生まれた後,ロレンゾの両親は新天地を求めてニューイングランドからアメリカ辺境地帯のオハイオ州へ移り住みました。
家族でオハイオ州に移るのは骨の折れる仕事であることが分かりました。木を伐採し,農場ができるように土地を開墾しなければなりませんでした。ロレンゾは幼いうちに大家族の中で勤勉に働くことを学びました。父親は仕事でしばしば家を空けなければならなかったので,農場の仕事の大半はロレンゾと弟たちにまかされました。農場は非常に成功し,歳月を経るに従ってスノー家はオハイオ州でも豊かで影響力を持つようになりました。マンチュアはオハイオ州の辺境の土地にやって来た学歴の高い,裕福な家族の住む町となりました。
両親は子供たちに文化的,社会的,また知的面でも努力をして学問を追求するように励ましました。ロレンゾは同年代の平均よりもさらに学問を深めました。ロレンゾは近郊のラヴェンナの町で高校に通い,新設されたオバーリン大学で一学期を終了しました。
両親はバプテスト派を信じていましたが,子供たちには自分で宗教を探究するよう促しました。両親は子供たちに宗教を探求して,得た情報を家族で話し合うよう勧めました。話し合う時には偏狭になったり,狭い心を持つことは決して許されませんでした。家族みんながすべての宗教的テーマについて自分の意見や考えを口にするよう奨励されました。
スノー家の農場から4マイル(約6.4キロ)のハイラムの町には,預言者ジョセフ・スミスが住んでいました。ロレンゾがモルモニズムという新しい宗教について聞き,その創始者ジョセフ・スミスが神の預言者であると宣言したのはこの時でした。自宅近くに教会が設立された時,ロレンゾと仲のよかった姉が最初にモルモニズムを探究し始め,彼女はロレンゾにそれを紹介しました。ロレンゾは在学中のオバーリン大学から宗教についての質問を書いた手紙を出し,姉はそれに答えました。
ロレンゾの記録には,自宅でモルモン書の朗読を聞いた時のことや,後の1831年に預言者の家を訪ねた時のことが記されています。当時,モルモニズムは宗教とはみなされず,一時の気まぐれのように思われていました。ロレンゾは自ら,このいわゆる預言者が本当にそうであるかどうか見極めることにしました。非難とは反対に,ロレンゾは預言者が正直で誠実な人であることが分かりました。後にロレンゾは「決して消すことのできない光がわたしの理解の中に灯った。」1と書いています。
その後まもなくロレンゾの母親と上の2人の姉が教会のバプテスマを受けました。若かったスノーにとって,組織された宗教というものには全く心を惹きつけられなかったので,この時は中立の立場を選び,オバーリン大学に戻りました。
オバーリン大学では使徒のデビッド・パッテンと会う機会があり,彼は教会についてのロレンゾの疑問に熱心に答えてくれました。ロレンゾは勉学を続ける機会を得て,2人の姉とともにカートランドに移り住みました。ロレンゾは新しい宗教を学び続け,預言者ジョセフ・スミスのたくさんの説教に耳を傾けました。ロレンゾは個人的にもジョセフから教えを受けました。ロレンゾは教会の会員や彼らの回復された福音に対する強い証を観察して,福音には何も仰々しいものがないことが分りました。福音は明白で,シンプルで,強い確信がありました。ロレンゾはモルモンのコミュニティーで教えていたヘブライ語のクラスに出席しました。そのクラスにはジョセフ・スミスも出席していました。
ロレンゾは自分の思いを次のように記録しています。「バプテスマの儀式を受け入れる前,末日聖徒から教わった原則を探究する中で,新約聖書に記されたキリストと使徒によって教えられたものと比較してみると,それは同じであることが判明し,これらの原則に従順であれば(自分のバプテスマや確認の儀式のあと)奇跡的な力や現れや啓示を授かるということをすっかり確信していた。現れは期待していたようにバプテスマの後すぐには起こらなかった。しかし時は延ばされたが,わたしがそれを確かに受けた時には,その実現はわたしが期待して待っていた最も強い願い以上に,より完全で,明白で,奇跡的なものだった。…わたしはみ業が真実であるという知識をまだ得ていなかった…わたしは本をわきに置き,家を出て,耐え難い憂鬱な絶望的な気持ちで,言葉で表せないような暗い雲が自分を包み込むような気配の中,農場を歩きまわった。…わたしは密かに祈りを捧げるためにひざまずいた。わたしが祈ろうとして口を開くやいなや,自分の頭上に絹づれのような音がして,すぐに神の御霊が降りてきて,わたしをすっぽりと包み,頭のてっぺんからつま先までわたしを満たし,わたしは非常な喜びと幸福に包まれた!どのような言語をもってしても,当時わたしの知識に授けられた精神的,霊的暗闇の深い雲の中から光と知識の輝きの中にほとんど瞬時に移ってしまったことを表すことはできない。その時わたしは神が生きておられ,イエス・キリストが神の御子であられ,聖なる神権と全き福音の回復についての完全な知識を受けたのである。」2ロレンゾは1836年6月19日にバプテスマを受けました。
バプテスマを受けてからまもなく,ロレンゾは宣教師たちが伝道から戻り,主のために働き,福音を宣言した多くの経験について分かち合うのを目にしました。自分も宣教師になって福音を分かち合いたいと思いました。教会のために最初の伝道に出たのは1837年の春のことでした。最初に故郷のマンチュアに戻り,そこで友人と家族の何人かに福音を教え,バプテスマを施し,後にミズーリ州,イリノイ州,ケンタッキー州で伝道しました。それからイギリス,イタリア,フランス,スイスで伝道しました。先任者たちと同様,ロレンゾは何千人も教会に導きました。
最初の伝道に出た時,次のように記録しています。「1837年の早春,わたしは小さなスーツケースを背負い,古代の宣教師と同じように『お金も財布も持たずに』3徒歩で独りで,神の御子の全き福音の回復を宣言し,自分の見たり,聞いたりしたことや,聖霊の霊感により受けた知識を証しするために出発した。しかしながらお金や財布も持たずに行くというのはわたしの独立心に対する自然な気持ちに対しては耐え難い試練であった。なぜなら働ける年齢になってから,『自分のものは自分で払ってきた』という意識は,常に自尊心を保つためになくてはならないもののように思え,神が今それを必要とされているという肯定的な知識以外に,古代においてキリストの弟子である僕たちに神がなされたように,生活における共通の必需品を同胞に依存して前進するよう仕向けるものはなかった。しかしこの件についてのわたしの義務は明らかに知らされ,わたしはそれを行う決意をした。」4
1838年に,ロレンゾ・スノーは迫害を逃れて他のモルモンたちと共にミズーリ州へ移動しました。しかし,そこでの迫害ははるかにひどいもので,ロレンゾは人々と共に苦しみました。その後ケンタッキー州,イリノイ州,ミズーリ州へ伝道に行き,ミズーリ州に滞在中にモルモンはミズーリから強制退去させられたということを知りました。ロレンゾはオハイオ州カートランドまで500マイル(約800キロ)徒歩で行き,そこの学校で2年間教えました。
1840年に伝道中,ロレンゾは美しく装丁されたモルモン書を準備し,ヘンリー・ホウィートリー卿を通じて女王に進呈しました。帰路では,モルモンの一団を率いて無事にイリノイ州ノーブーに到着しました。
モルモンの最初の預言者であるジョセフ・スミスが殺されたことを知ったのは,ロレンゾがオハイオ州で伝道している時でした。
イギリスでの伝道を終えてノーブーに戻った後,ロレンゾは預言者ジョセフ・スミスから多妻結婚の原則について学びました。その律法に従順に従ったロレンゾは,1846年にノーブーを脱出する前までにシャーロット・スクワイヤーズ,メアリー・エイダリン・ゴダード,サラ・アン・プリチャード,ハリエット・アメリア・スクワイヤーズと結婚しました。その旅は家族にとって非常に困難なものでした。ロレンゾの病気や,旅の間に生まれた3人の子供のうちの1人の死と埋葬のために,アイオワ州で中断しました。ロレンゾはアイオワ州のピスガー山に一時的に落ち着いた時にそこを管理するよう召されました。そこで西に移動する聖徒たちを助けるためにロレンゾは精力的に資金を工面しました。家族は1848年にソルトレークバレーに到着することができました。
1849年には,ロレンゾはイタリアでの伝道の召しを受けました。これは家族をおいて行く初めての伝道でした。3年ほど留守にして戻ってみると,妻のシャーロットが亡くなっていたのを知りました。
1853年には当時教会の預言者であったブリガム・ヤング大管長がロレンゾを十二使徒定員会の会員に召しました。同時に家族を連れてユタ州のブリガムシティーに移るよう要請され,そこで会員を管理するようになりました。そこで演劇協会,公立学校制度,ブリガムシティー商業製造協会を組織設立しました。1852年には,ユタ州議会の議員に選出され,29年間その職を務めました。
1864年にはスノー長老は現在ハワイ諸島として知られるサンドウィッチ諸島への短期伝道に出かけました。荒れた波の上を岸に向かう時に,宣教師たちは蒸気船から小さなボートに移りました。彼らが進もうとしている時,巨大な波でボートが転覆しました。共にいた宣教師たちはスノー長老以外全員救助されました。長老の体は意識のないまま水に浮かんでいました。同僚が岸まで引き上げ,1時間ほど蘇生を試みましたが,効果がありませんでした。同僚の1人のクラフ長老は何が起きたか説明し,「わたしたちはそのような時にいつもすることだけでなく,御霊がわたしたちにささやいたことをしました。しばらくやってみて,息を吹き返す兆候もないので,見ていた人たちはもうこれ以上無理だと言いました。でもわたしたちはあきらめる気がしなかったので,祈って蘇生を試みました。主が祈りを聞いてくださり,答えてくださるという確信があったからです。ついにわたしたちは可能な限り普通に呼吸する時のように,長老の口から息を吹き込んで肺を膨らませ,息を吐くように繰り返してやってみようと思いました。…しばらくしてかすかに息を吹き返す兆候に気付きました。…徐々にその兆候は明らかになり,ついには意識が完全に戻りました。」5
1889年4月の教会の総大会で,ロレンゾ・スノーは十二使徒定員会の会長に支持されました。1893年にソルトレーク神殿が完成すると,スノー会長は最初の神殿会長になりました。1898年にスノー会長がウッドラフ大管長の病気を知った時,ウッドラフ大管長が死ぬようなことがあれば自分が負うことになる重荷が重くのしかかりました。スノー会長はそのことについて祈るために神殿に行きました。神がウッドラフ大管長の命をしばし生きながらえさせ,スノー会長がこの責任につかなくても良いことを願いながら。「けれども,御旨がなりますように。わたしはこの責任を望んではいませんが,もしそれがみこころならば,わたしはあなたさまの導きと教えを受けるために御前にまいります。あなたさまの御心に従いたいと思います。」と祈りました。スノー会長は答えを待ちましたが,それは与えられないように感じました。非常に残念な思いで日の栄の部屋をあとにしようとした時,驚くべき示現を受けました。何年も後,ロレンゾはこの経験を孫娘のアリー・ヤング・ポンドに話して聞かせました。彼女はこの経験について次のように述べています。
「わたしたちは祖父の部屋を出て,日の栄の部屋につながる大きな廊下を歩いていました。わたしは祖父の数歩前を歩いていましたが,祖父はわたしを止めて言いました。『ちょっと待ってアリー。話したいことがあるんだ。ウッドラフ大管長が亡くなった時に主イエス・キリストが現われたのはまさにこの場所なんだよ。』
それから祖父は一歩近づき,左手を伸ばして言いました。『ちょうどここに床から1メートルくらいの所に立っておられた。まるで純金の床の上に立っておられるようだった。』
祖父は救い主がどれほど栄光に満ちておられたか話してくれ,主の手,足,顔,美しい白い衣について説明してくれました。それらすべては純白で輝いて栄光に満ちていたので,見上げることができないほどでした。
それから祖父はもう一歩踏み出し,わたしの頭の上に右手を置いて次のように言いました。『さて,孫娘よ。これがおじいちゃんの証だということを覚えておいてほしいのだよ。わたしがこの神殿で実際に救い主を見て,救い主と顔と顔を合わせて話したということを自分の口からお前に話したというおじいさんの証を。』」7
ウッドラフ大管長の死後,スノー会長は末日聖徒イエス・キリスト教会の預言者,聖見者,啓示を受ける者として支持されました。
スノー大管長がその召しに召された時,教会は2,300万ドルの負債を抱えていました。負債の主な原因は1887年施行されたエドマンズタッカー法の規定による教会資産のアメリカ合衆国による没収です。連邦政府は教会の資産のほとんどを没収してしまいました。その中には教会員により捧げられた什分の一の基金も含まれていました。会員の中には什分の一を含む資金の寄付をやめる者も出てきました。
この負債はスノー大管長に重くのしかかり,大管長は財政問題について答えを求めて主に祈り,次のような啓示を受けました。「これがわたしたちの財政問題についての答えです。教会はたくさんの負債を抱えていますが,皆さんに申し上げます。もしこの民が正直に完全な什分の一を納めるならば,負債の足かせはわたしたちから離れるでしょう。」6スノー大管長はこのメッセージを地域のすべての聖徒に伝え,什分の一の原則をもう一度守るようにしました。スノー大管長がこの世を去る前に教会の負債の問題は解決しました。」
新たな世紀が始まると,スノー大管長は教会の使徒と指導者が持っていた責任である福音を広め,聖徒を救い主の再臨に備えるということについて繰り返し述べました。ロシア,オーストリア,中南米に伝道部を開き,メキシコでも伝道の業を再開しました。教会の若い男性はその地域の宣教師として仕えるように召され,設立された若い男性の組織に参加するよう求めました。大管長は多くの言語へのモルモン書の翻訳を監督し,教会についての小冊子を準備し,発行しました。
スノー大管長は1901年にソルトレークの自宅にて死去しました。87歳でした。教会の大管長としての在任期間は短かったですが,亡くなった頃には教会の会員は292,931名に及び,そのうちの25,680名はスノー大管長の3年の在任期間中にバプテスマを受けました。
モルモニズムについてさらに詳しくお知りになりたい方は以下のウェブサイトをご覧ください。
1.『ロレンゾ・スノー日記』,Mormon Church Archives,1937年2月,82-83ページ 2.『伝記と家族の記録』,Smith,7-9ページ 3.定義:お金がない 4.『伝記と家族の記録』,Smith,15ページ 5.『ロレンゾ・スノーの生涯』,Romney,203-204ページ 6.『歴史記録』,見出し,1899年5月8日 7.デゼレトニュース,Church Section,1938年4月2日,8ページ 8.「教義と聖約のすべての人」リン・F・プライス,シーダーフォート,2007年
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