Joseph-Smith-mormonモルモン歴史史跡に申請

ジョセフ・スミス・ジュニアは1805年のクリスマスの二日前にサウス・ローヤルトン・バーモントに誕生しました。彼は末日聖徒イエス・キリスト教会の最初の預言者、大管長になりました。会員はしばしばモルモンと呼ばれます。今日、記念碑は教会員であるなしを問わず正真正銘の資料から指導者についてより深く学べる場となっています。

ジョセフの家族は、経済的問題から彼が3歳のときに引っ越して来ましたが、歴史を変える物語の始まりの場所となりました。これはモルモンにとってだけでなく、ユタを定住地として途方もない西への移住をした人々や教会の人道支援により援助を受けた世界中の各地の人々にとってもそうです。

元の農場は100エーカー(約40万平方メートル)あり、祖父ソロモン・マック(ジョセフの母はルーシー・マック・スミス)の所有地でした。ルーシーとその夫ジョセフは結婚して間もなくその農場に移り住み、仕事を手伝いました。しかし、農作物が不出来で引っ越しを余儀なくされました。

1905年、若いモルモンであったジュニアス・F・ウェルズは最初のモルモンの大管長の正式な記念碑を作りたいという願望がありました。彼は教会の指導者にその土地を購入して記念碑を作る許可を申請しました。許可が与えられました。これが発端となり、教会は教会歴史上重要な土地を購入し、保護する必要があるという認識になりました。最終的には隣接した土地を追加で200エーカー(約80万平方メートル)購入するに至りました。

元の家はなくなってしまいましたが、ジュニアスはその跡地に新しい家の建設を始めました。高さ11.5メートルのオベリスクを建立するために、そこから56キロほど離れた花崗岩の採石場の職人が雇われました。ジョセフ・スミスは38歳と6か月で殺されました。道が舗装されていなかったため、新しい場所にオベリスクを運搬するのに7週間かかりました。その後、最終の場所には全く通れないことがわかりました。ジュニアスはその日の仕事は徒労に終わった職人たちに帰宅するよう告げ、明朝には動かすことができるだろうと約束しました。それから彼は家に帰り、神の助けを祈り求めました。その晩、この地では風雨が激しくなり、3時間半の間に気温が17度も低下しました。水たまりは凍り、翌朝には職人たちはオベリスクを氷の上を滑らせました。

多くの変更があったにもかかわらず、碑は奉献の4日前に完成しました。奉献はジョセフ・スミスの甥であり当時教会の大管長であったジョセフ・F・スミス(モルモンは指導者の地位を親子で継承することはしませんが、ときに親族が教会の指導者になるということがあります。)により執り行われました。奉献式ではその地が平安に満たされるという約束がなされ、これはここを訪れた訪問者がよく口にすることです。

元の家の暖炉の石や玄関の階段はまだ残っており、今でも見ることができます。加えて、訪問者はジョセフ・スミスの生涯と使命に関する1時間のドキュメンタリー映画を見ることができ、また家族の写真やジョセフ・スミスが神の力で翻訳した書物(モルモン書)や受けた啓示をまとめた書物(教義と聖約)も展示されています。これらはモルモンたちにとって欽定訳聖書と共に用いられています。

クリスマスには、そこは光と音楽があふれ、クリスマスを静かな所でお祝いしたい人々にとって人気のある場所となっています。

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