モルモンの歴史人名録より

ニューエル・ナイトは1800年9月13日にバーモント州にて父ジョセフ・ナイト・シニアと母ポリー・ペックの二男として生まれました。家族は裕福ではありませんでしたが,まずまずの生活をして,子供たちは公立学校で学びました。両親は神を信じていましたが,教会に入ってはいませんでした。人は皆,最終的には天国に行けるという教えのユニバーサリアン派の教義を受け入れていましたが,教会には全く行っていませんでした。

1825年にモルモンの最初の預言者であるジョセフ・スミスはニューエルの父ジョセフの取引先に働きに来ました。ジョセフが家に戻っても,彼はニューエルの父ジョセフと,その取引先とは連絡を取っていたので,1826年にジョセフはジョセフ・ナイトに雇われました。ナイトはジョセフ・スミスが今まで家で雇った誰よりも働き者だと思いました。若いジョセフ・スミスは家族皆と仲がよく,特に父親ジョセフとは特別な友情を築きました。

家族はジョセフ・スミスが将来古代の記録を明らかにするよう神により召されたことを知りました。ジョセフ・ナイトとその末息子で同じ名前のジョセフはジョセフ・スミスのことを信じましたが,ニューエルとその兄のネイハムは信じませんでした。しかしニューエルはジョセフ・スミスを非常に尊敬し,預言者のことを親友であり,親切な人だと説明していました。

金版が翻訳され,モルモン書として出版された後,教会が設立されました。ニューエルの家族はゆっくり時間をかけてバプテスマを受けるようになりました。ジョセフ・スミスが一連の集会で説教するためにコールズビルに旅に出た時,ニューエルはそれぞれの集会に出席し,友人であるジョセフと新しい宗教について個人的に話し合いました。ある日,ニューエルは信仰について独りで祈るために森に入りました。すると邪悪な霊が彼の口を閉じ,祈ることができなくなりました。ジョセフ・スミスが呼びよせられ,彼は悪霊に去るように命じました。ニューエルは霊に憑りつかれて床から浮いていました。これが近代の最初の奇跡で,それにより多くの人々が教会に入る決意をしました。

ジョセフ・スミスは当時バプテスマを施していませんでしたので,ニューエルはデビッド・ホイットーマーからバプテスマを受けました。コールズビルではこれから多くのバプテスマがあるかもしれませんが,彼は家族の中で,またその町で最初の改宗者でした。教会の最初の大会で,ニューエルは初めて示現を受けました。その中で福音の回復のために偉大な御業が起こるであろうということを知りました。彼はその中で,救い主を見て,自分の救いについての確信を受けました。大会の後にはバプテスマがあり,彼の父親はその日バプテスマを予定されていた一人でした。しかし暴徒が堰きとめた川を破壊しました。そこで急いで修理してバプテスマは行われました。バプテスマの確認をする前に,暴徒たちはジョセフ・スミスを捕えてしまいました。ニューエルの父親は,バプテスマの確認を妨害するために企てられたこの明らかな冤罪をはらす助けをするために弁護士を送りこみ,ニューエルは裁判で証言しました。冤罪は取り下げられ,バプテスマの確認は続けられました。

ナイト家に対する迫害はひどくなり,ニューエルの父と姉妹は家から逃れなければなりませんでした。ニューエルは氷が川から無くなり次第,他の教会員が出発できるようにその準備を手伝うために残りました。

モルモンは憲法で保障された宗教の自由を持てる場所を探し続けました。ミズーリでは,ニューエルの母親が亡くなり,その後多くの親戚も亡くなりました。おじが亡くなった時,彼は文句を言うこともなく,おばを引きとりました。彼らは人生を楽しく生きたと彼は書いています。彼は迫害が最もひどい時でも,モルモンは受けたたくさんの祝福を神に感謝するのを決して忘れなかったと記しています。彼の生まれたばかりの息子は死に,妻も死にました。彼女は産後の弱った体では暴徒による迫害や困難を耐えることができなかったと彼は書いています。彼も病気になり,この時はおばと残された子供の世話を苦労しながらしました。ほとんど歩けないほど具合が悪いにもかかわらず,ニューエルはカートランド神殿を建設する助けをするようにという人々への呼びかけに応えました。900マイル(約560キロ)の旅を終えるころには,彼はより健康になり,道すがら伝道を始めました。この計画に携わっている間,彼は二番目の妻となる女性に会いました。彼女は夫に捨てられた若い改宗者でした。彼らはジョセフ・スミスの初めての婚礼の司式により結婚しました。

二人がミズーリの家に戻った時,迫害は非常に激しくなっていました。モルモンは強制退去を命ぜられましたが,ニューエルはおばと息子の世話をし,家を維持しながらも,神殿で無給で働いていたので,そうするお金もありませんでした。健康も害していました。彼はまだ退去する準備のできない人々とともに留まっていました。おばが亡くなり,ついに彼も出発できるようになってカルドウェル郡に落ち着きましたが,暴徒たちは町を破壊しました。ボッグズ知事は撲滅令を出して,すべてのモルモンを殺すのは合法としたので,危険は増大しました。再度,ニューエルは退去を余儀なくされ,この度はノーブーに移りました。この時,彼は時には食糧も服もない時もありましたが,他の時は少しのぜいたくで十分でした。彼はそのような状況に置かれても,決して証を失ったことはないと記しています。

ジョセフ・スミスは殺され,再び家族はそこを発たなければなりませんでした。ジョセフは仲の良い友達だったので,この時はニューエルにとって個人的な悲しみの時でした。しかし彼と家族は今や7人の子供がいましたが,ユタに行く途中カウンシルブラフスに移りました。しかしニューエルはユタに到着することはできませんでした。火事でとりでが危険にさらされ,ニューエルは助けの呼びかけに応えたのです。その結果重い病気にかかってしまい,おそらく肺炎のため,彼は命を落としました。家族は数年間お金を貯めてユタへの旅を続けました。

資料: 『教義と聖約のすべての人』リン・F・プライス,シーダーフォート,2007年 「ジョセフ・ナイトの家族」ラリー・ポーター,『エンサイン』1978年10月号

この投稿はテリー・リン・ビットナーがしました。彼女はモルモンの歴史について30本の投稿をしています。

Pin It on Pinterest

Share This