モルモンの歴史の人名録より

parley_p_pratt_MD1パーリー・P・プラットは初期のモルモンの使徒であり,執筆者でもありました。1807年4月12日にニューヨーク州,バーリントンにてジャレド・プラットとチャリティー・ディケンソンの間に生まれました。プラット家は巡礼者を先祖に持っていました。家族の引っ越しがたび重なったため,彼はあまり教育を受けることができませんでしたが,たくさんの本を読み,自ら熱心に学びました。

18歳でバプテスト派に改宗しました。しかしそれが真実であるか否かについては満足していたわけではありませんでした。結婚後ほどなくしてシドニー・リグドンの説教を聞きました。リグドンは後にモルモンの使徒になりましたが,当時はキャンベライトの使徒と呼ばれるグループの説教者でした。プラットは新約聖書に書かれた福音を実際に教えているのを聞き,感動を覚えましたが,権能ということについてはまだ懸念がありました。自ら学びながら使徒というものはイエス・キリストが亡くなられた後,教え続ける権能が与えられ,今日であっても権能を持った使徒が必要だと分かっていたからです。不安を胸に抱きながらもプラットはその運動に加わり,説教者となりました。

パーリー・P・プラットのモルモニズムへの改宗

1830年,彼はニューヨークに帰る途中で立ち寄ったクリーブランドの近くのオハイオで説教をしていました。そこでバプテスト派の牧師からモルモン書について聞きました。彼はその一部を読み,強く動かされました。 「わたしは一日中読み,食事をとるのさえ負担になった。食べたいという気持ちはなくなり,夜になると眠るということも負担であった。眠るよりも読み続けたいと思っていたからだ。…わたしはその書物が真実であることを理解したことが分かった。…今やわたしは喜びで胸がいっぱいになった。」

彼はジョセフ・スミスに会うためにマンチェスターに旅をすることを決めました。そこでジョセフの兄ハイラム・スミスに会い,彼からモルモン書をもらいました。パーリーはそれを読み,8月にはフェイエットにハイラムと共に行き,そこでバプテスマを受けました。彼は長老(神権者)となり,バプテスマの後にはモルモンの教えについて家族に教えるため帰還しました。彼の弟のオーソン・プラットも教会の会員になりました。

モルモンの宣教師 10月には宣教師になるという最初の召しを受け入れ,アメリカ原住民に伝道するためにミズーリのはずれに送られました。同僚とともにそこに旅をして,出会った人々にモルモンの教えについて教える機会がありました。オハイオ州カートランドでは,シドニー・リグドンに会い,彼と宗教について語り合い,リグドンと彼の妻を含む多くのリグドンの信徒は改宗しました。宣教師たちはアメリカ原住民に福音を宣べ伝え,バッファローの近郊のキャタローガス族や,オハイオ州のワイアンドッツ族,ミズーリのはずれのデラウェア族を教え,改宗に導きました。

その後,何回か伝道に出ましたが,その中にはシェーカー教徒への伝道も含まれていました。

1831年6月には,パーリー・P・プラットは教会の大会において大祭司の一人に召されました。その後,彼と弟は伝道しながらミズーリでの別の大会に行きました。

1833年にジョセフ・スミスは神がパーリー・P・プラットのことを喜んでおられ,ふさわしい限り学校を続けるようにという啓示を受けました。それから間もなく,彼とその他のモルモンは暴徒たちにより家を焼かれ,作物を損なわれ,多くの教会員も殺されて,その地をあとにしなければなりませんでした。彼らはしばらくの間,川の対岸に落ち着きました。

モルモン教徒への迫害

1834年に,モルモンたちは知事に公約を履行するよう求めました。知事はモルモンが家に戻り,襲撃に対しては自衛できるという公約をしていました。パーリー・P・プラットとオーソン・ハイドはこの申し出を持って知事を訪問しましたが,知事は彼らに対する義務と,宗教的自由への義務を拒みました。

その後,パーリー・P・プラットは教会の最も高い職に就きました。使徒の最初のグループが任命されると,彼は年齢的に七番目の地位につきました。(今日では使徒はその職についた長さで順位がつけられますが,最初のグループは同時に召されたため,年齢順になっていました。)使徒として,彼はイエス・キリストを証する特別な召しを持っていました。1836年にはカナダへ行き,いくつかの信徒の集まりを作り,その後ニューヨークでも同じようにしました。最初の妻であるサンクフルは出産後,数時間で命を落としました。家族や教会の中の問題や,ひどい迫害により,パーリーは一時的に教会への信仰を失いましたが,間もなく戻り,赦しを乞いました。

1838年にはカルドウェル郡に引っ越しましたが,暴徒は再びモルモンを襲撃しました。ボッグズ知事はモルモンを殺害するのは法的に正しいという悪名高い撲滅令を発令しました。モルモンは撲滅令のことを知りませんでしたが,暴徒たちは知っていたのです。暴徒の民兵が到着すると,モルモンは彼らと平和的解決を試みました。しかし次の日ヒンクル大佐はルーカス大将と会い,権限がないにもかかわらず,ジョセフ・スミスと他の教会の指導者を暴徒に引き渡し,教会員を家から追い出し,多くの者を殺害するという約束をしました。暴徒は何百万ドルもの価値のある財産を破壊しました。

プラットと教会の他の指導者はモルモンがイリノイ州に逃れる間の8か月間牢に閉じ込められたままでした。パーリー・P・プラットは収監されている間,モルモンの迫害について本を書きました。このようなたぐいの逮捕の裁判では,告発された側を代表して証言する者は逮捕され,彼らに反対の証言をした者だけが残ることはよくあることでした。ほとんどの場合,モルモンを収監した暴徒たちの中から選ばれました。プラットたちは裁判地が変わったときに逃げることができました。プラットは一度独りで脱走しましたが,ほかの囚人を危険にさらすことを恐れて戻ってきました。グループの一人は再逮捕されましたが,彼らに対する実際の容疑がないとわかると釈放されました。

1840年にパーリー・P・プラットはイギリスで伝道し,ミレニアムスターというモルモンの新聞の発行を始めました。その後,彼はすべてのイギリス評議会の議長に任命されました。1845年にはミドルステーツとニューイングランドの評議会の議長に任命されました。ニューヨークに本部を置いて,彼は定期的に「The Prophet」を刊行しました。

1846年にイリノイ州ノーブーに戻りましたが,ジョセフ・スミス暗殺に続いてモルモンたちはイリノイ州を強制的に退去させられました。プラットは最初の一団が出発後10日ほどしてから出発しました。ユタへの辛い旅が終わって一か月後,プラットと複数の男性たちはイギリスに派遣されました。教会のその地域を監督する二人の男性は教会基金の不祥事により,除名されました。

翌年の初めに彼らが帰還すると,ブリガム・ヤングにイギリスでのことを報告するためにウィンター・クォーターズに行きました。彼らはウィンター・クォーターズの聖徒の世話をまかされ,ユタに連れて行くよう依頼され,そのようにしました。

ユタでは臨時政府が設立され,パーリー・P・プラットはその規約の起草の支援をしました。ユタが合衆国の領土として受け入れられたとき,彼は立法審議会の一員に選出されました。後に,彼は何度か伝道に出て,多妻結婚をしました。彼は多くの小冊子,記事,本を書きました。その中で最も有名なのは『神学の科学への鍵』です。彼の自叙伝は1857年にアーカンサスで暗殺された後に出版されました。

資料: モルモンの開拓者の西部への移動

資料: 『教義と聖約のあらゆる人物』リン・F・プライス,シーダーフォート,2007年,および「パーリー・P・プラットのたぐいまれな人生」,マシュー・J・グロー『エンサイン』2007年4月号,

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