モルモンの歴史の人名録より

トーマス・B・マーシュは破門されるまで,末日聖徒イエス・キリスト教会の使徒として一時の間,奉仕しました。彼は最終的には教会に戻りました。

彼は1799年にマサチューセッツ州においてジェームズ・マーシュとメアリー・ローの間に生まれました。1820年にエリザベス・ゴドキンと結婚し,食糧雑貨販売業を始めました。それが失敗に終わると,ボストンに移り,活字鋳造所で7年間働きました。

ボストンでは,一時メソジスト派に入りましたが,ほどなく教会の教えが聖書で読んだことと一致していないと確信しました。彼はメソジスト派を辞めましたが,いつか真実の教会が回復されるということを御霊が告げるのを感じました。それから旅に出るよう促され,パルマイラまで旅をしました。パルマイラの印刷所に着くと,そこでマーティン・ハリスに会いました。モルモン書の最初の16ページが印刷されており,彼はそれを読みました。彼はその書物が真実であると確信し,マサチューセッツの家まで持ち帰っても良いか許可を求めました。彼はそれを妻のエリザベスに渡し,彼女もそれを読んで信じました。しかし,教会はまだ設立されていなかったので,その信条に従って行動することはできませんでした。彼は将来の教会の指導者たちと連絡を取り合い,教会が設立されたことを知ると,家族を連れてニューヨーク州パルマイラにやってきました。そこにはジョセフ・スミスが住んでいました。まもなく彼はバプテスマを受け,神権を与えられました。彼はジョセフ・スミスを通して与えられた啓示の中で,その信仰を褒められ,家族は面倒を見てもらえると保証されました。彼は福音を教える召し(ボランティアの割り当て)を受け,教会で奉仕しました。教会の新会員として共に集い始める人々の面倒を見る召しに任命されました。

1831年には,モルモンは安全を求め,平穏に宗教を実践する権利を得るために,オハイオ州カートランドに移り住みました。トーマス・B・マーシュはそこに聖徒(モルモンは自らをこう呼びました)たちと共に移動しました。そこで開かれた大会において,彼は大祭司となり,まもなく伝道に召され,翌年早くに帰還しました。この後,ニューヨークへの短期間の伝道がありました。それから彼はミズーリ州ジャクソン郡のビッグブルーリバーに定住するために送られたモルモンの小さな一団の世話をする担当になりました。彼らはほどなくして暴徒たちに家を追われ,トーマスと家族はラフェイエット郡に移り,そこの学校で教師をしました。その後クレイ郡に移り,教会の地域の指導組織である高等評議員の一員になりました。

1835年の1月にはオハイオ州カートランドに戻り,使徒に召されました。すべての使徒が同時に召されたため,今日のように聖任順ではなく,年齢順の序列となりました。そのため彼は35歳で一番年かさだったため,十二使徒定員会の会長となりました。

トーマス・B・マーシュは問題解決ができるとの評判が立ちました。彼はクレイ郡における郡と教会員の争議の解決を援助するために委員会の一員として派遣されました。彼の話は非常に力強いものだったので,アチソン将軍は涙を流したほどでした。

1837年にはジョセフはトーマス・マーシュに使徒にするという啓示を伝えました。その中で反抗的になるのではなく,忠実でいるようにという励ましを与えました。激しい迫害と試しに直面して,経験のない指導者たちのグループにはすでに反逆する者が出てきていたのです。迫害にどう対処したら良いかわからない者や,教会が真実なら誰もいなくなってしまうと考える者もいました。

ミズーリ州ファーウェストでは問題が起こり,教会の指導者の中には教会での地位を失う者もいました。トーマス・B・マーシュとデビッド・パッテンはジョセフがやってきて新たな指導者を召すまでモルモンを導くために派遣されました。そこで彼とパッテンとブリガム・ヤングは地域の会長会を形成しました。デビッド以外の2人は旅に派遣され,デビッドはそこに留まり,人々を導くように指示されました。

10月になると,トーマスの教会における忠実な奉仕は,妻とチーズから始まった問題のためにほころび始めました。エリザベスと友人のハリス姉妹は自家製のチーズを売ってお金を稼いでいました。彼女たちは自分たちのミルクを混ぜればお金をもっと稼げると思い,さらに利益を得るため,また公平にするために上澄みを入れることに同意しました。上澄みはクリームの中でもより脂肪のある部分でした。ハリス姉妹は自分の上澄みを入れましたが,エリザベスはそうしませんでした。彼女は自分のチーズが特においしくなるように1パイント(約500CC)自分のために取っておきました。このように小さなグループでは,意見の対立は往々にしてグループレベルで,つまり教会レベルで解決しなければなりませんでした。そのためホームティーチャーに頼んでこの件を解決してもらうことにしました。皆はエリザベスがごまかしたと感じていましたが,彼女とトーマスはこのことで非常に立腹しました。この件はビショップや地域の指導者にまで持ち込まれました。彼らもエリザベスがハリス姉妹と契約し,エリザベスがそれを破ったということで一致しました。怒りがさめやらぬマーシュ家はそれをもっと上位の人々の手にゆだねました。高等評議員は今迄の決定を承認したので,トーマスは預言者のところにまでこの件を持ちこみました。預言者がマーシュ姉妹が仕事の義務を果たさなかったということを認めた時に,マーシュは非常に怒り,判事のもとへ行き,モルモンは州に対して敵意を抱いているという宣誓供述書を提出しました。これは「仕返しをする」ためのものでしたが,これには悲劇的な結果が待っていました。彼の宣誓供述書はボッグズ知事のモルモン撲滅令を出す決定要素となりました。この決定のために多くの死と迫害が起こりました。

1839年に,教会の他の会員たちの死をもたらしたことにより彼は破門されました。19年後に,彼は当時の教会の大管長だったブリガム・ヤングを訪ね,赦しを乞いました。また教会の大管長会の第一顧問であったヒーバー・C・キンボールに宛てに手紙を書きました。それには次にようにあります。「わたしがいなくても主の業には何の支障もなく,主は,わたしがかつての地位から脱落したからといって何を失われたわけでもありませんでした。ところがわたしの失ったものは,何と大きかったことでしょう。全世界,あるいはこの地球のような惑星が幾つ集まっても差し出せないほど大きな富を失ったのです。」(トーマス・S・モンソン 「心を抑えよ,兄弟たちよ」『リアホナ』2009年11月号)

彼は再びバプテスマを受け,ユタに移り住み,1866年に亡くなりました。

この投稿はテリー・リン・ビトナーからのものです。彼女はモルモンの歴史について30本の投稿をしています。

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